2014年8月15日金曜日

壁も乾かぬ|石川卓磨+高木生

てにをは で活動している高木くんと一緒に作品を作りました。 高木くんと僕は、波で一緒に活動していました。

壁も乾かぬ|石川卓磨+高木生

 

2014年8月14日木曜日

中国語版ウェブARTFORUMに記事を書きました。

先月ラトビアで行われた「ペーパー・オブジェクト・フェスティバル」に同行し、「欧州文化首都 リガ2014」のプログラムをいろいろ見てきました。そのレポートを中国語版ウェブARTFORUMに書きました。


ここでは、「ペーパー・オブジェクト・フェスティバル」の参加作家である渡辺泰子さん、山崎成美さん、近藤亮介さん&イルマックさんの作品にも言及しています。 少し書き足して、ブログに日本語バージョンをブログにアップする予定です。

2014年8月4日月曜日

「ウルの牡山羊」シガリット・ランダウ展のレヴュー(日本語版)


※いままで日本語版を発表していなかったので、ここに日本語版を掲載します。
この記事は、中国語版ウェブArtForum20136月に掲載した記事です。



「ウルの牡山羊」シガリット・ランダウ展のレヴュー

 現在、銀座メゾンエルメス8階フォーラムでは、シガリット・ランダウの個展『ウルの牡山羊』(2013517-818日)が開催されている。シガリット・ランダウは、1969年エルサレムに生まれ、イギリスやアメリカなどでの暮らしを経て、現在はイスラエルを拠点に活動しているアーティストである。彼女は、パレスチナ問題、ユダヤ人の歴史、グローバル資本主義、ジェンダーといった自らのアイデンティティの問題を、作品のテーマとして積極的に取り入れてきた。
 《茂みの中へ[Out in the Thicket]》(2013)は、巨大なオリーブの木を収穫機によって激しく揺さぶり、実を一気に振り落としている映像を4面のスクリーンにプロジェクションと、観る者に心理的圧迫を感じさせるほどの轟音で構成されたインスタレーションである。穏やかな果樹園の光景を突如切り裂く収穫機の映像には、その場の録音だけではなく、女性の悲鳴のような声がヴォイス・オーヴァーで重ねられていて、劇的で強い象徴性を持っていた。
 展覧会と作品のタイトルは、アブラハムが神に命じられ息子イサクを生け贄に差し出そうとする旧約聖書の逸話を示唆するものであり、展示作品と結びつけると、ここでテーマとなっている問題は「犠牲」であることがわかる。
 そして、激しく震えるオリーブの木は、痙攣した人体のようであり、振り落とされる大量の実は、子どもの隠喩として擬人的に見えてくる。つまりこの映像は、宗教的な悲劇の表象でもあり、まるで拷問を映しているかのようだ。そこには目を背けたくなるような「痛み」と、木の震えに感じられる強い官能性が現れていた。イスラエルに住むランダウの歴史的なリアリティとして、この作品は強い説得力を感じさせた。
 だが、この作品を一つのドキュメンタリーとして捉えると、無視することのできない別の側面も見えてくる。
 映像に映されているオリーブの果樹園は、イスラエルのキブツ(集産主義的協同組合)に属しているが、栽培は古くからパレスチナ人労働者によって行なわれている。これらの果樹園での労働環境は、決して安定したものではない、とランダウは説明する。オリーブの果樹園は、イスラエル―パレスチナの不安定な政情下でいつ収穫できなくなるかわからないものである。またオリーブの木は防護壁を造るために、イスラエル政府によって切り倒されることも少なくない。パレスチナ人労働者は、軍隊に護衛してもらわなければ安心して果樹園に収穫に行けないこともある。このような環境で迅速にオリーブの実の収穫を行なうためには、収穫機によって機械的に一気にやらなければならないのだ。収穫機の観る者を戸惑わせるほどの暴力性には、そのような背景が存在しているのである。
 つまり、《茂みの中へ》をイサクの犠牲を結びつけた宗教的な映像として観るならば、パレスチナ人は機械を操作する加害者を演じているのである。そして、オリーブ栽培の状況を示すドキュメンタリー映像として観るならば、不安定な環境で働くパレスチナ人はイスラエルの政府や国民から抑圧されている被害者として存在している。彼女がここで描こうとしているのは、どちらのメッセージを重視しているのか。この問題はイスラエルの表象としてきわめて現実的で深刻な問題であるといえる。ランダウの二重性は、イスラエルでグローバルに活躍するアーティストとしての慎重な態度であることは間違いない。そして、宗教的な構造を作品に持ち込むのは、政治的問題だけでなく、世界的な美術市場からの要請も少なからずあるだろう。
 だが、政治的な正しさ考えるのであれば、いまイスラエルで必要とされているのは、むしろすべてに絡まっている(ようにみえる)宗教的な問題を外して社会的な構造を考える必要性があるのではないだろうか。もちろんこれは私の一方的な考えである。ランダウが、イスラエルのパレスチナ人への圧迫を嘆くのであれば(彼女はパレスチナ人の迫害について語っている)、宗教的な象徴性はむしろ誤解を招く要因となってしまっている。
 しかしランダウには、イスラエルとユダヤ人の歴史を被害者と加害者に区別することのできない、という感情が明らかにある。
 本展で出品されているもう一つのインスタレーション作品「火と薪はあります[Behold the Fire and the Wood]」(2013)には、50年代イスラエルの典型的な住居空間が再現され、台所のコンロからは4人の女性のおしゃべりの声が聞こえてくる。そこではそれぞれが異なる国からイスラエルに移住してきたユダヤ人女性の過酷な個人史(シオニズムの歴史)が、穏やかな雰囲気の中で料理の話や歌声とともに語られている。
 「ウルの牡山羊」を構成する2つの作品は、タイトルに示されるようなアブラハムとイサクという父と息子の物語は、母と子=木と実にふりかかった悲劇―歴史へと置き換えられている。
 この態度は、彼女が出産し母になったこと、それとほぼ同時に母親を亡くしたことと関係している。旧約聖書を参照するのは、イスラエルの歴史的な問題というよりも、母と子の営為や、ふりかかる暴力的な出来事を、個人のプライベートな問題ではなく、普遍的な問題として描こうとしているのだといえるだろう。彼女は、イスラエルとユダヤ人の歴史を直接的にイメージとして扱いながらも、作品の目的は、政治的なものではなく、政治的なものを無視することの政治性だという。しかし、そうであるならば彼女のテーマから宗教的な雰囲気を外して語ることはできなかったのか。このことについての抵抗感はすぐに拭えることはできそうにない。


参考リンク 
・WIRED-イスラエルの女性作家、シガリット・ランダウの日本初個展がメゾンエルメスにて開催
http://wired.jp/2013/05/13/hermes-sigalit-landau-exhibition/

・A Tree Standing, 2012
http://www.sigalitlandau.com/page/video/v_tree.php 

・Sigalit Landau
http://www.sigalitlandau.com/