2016年7月16日土曜日

この夏、ゼミを開講します



蜘蛛と箒企画
石川卓磨ゼミ
「芸術のこれからとここから|作品を作る/語るための方法と理論入門」
(全4回)


第1回|2016年8月20日[土]
小さい単位から考え始める|分析の時間

第2回|2016年8月21日[日]
環境を幾何学する|批評の時間

第3回|2016年8月27日[土]
フィクションを構築する|想像力の時間

第4回|2016年8月28日[日]
発明的な思考と方法|構想力の時間



“新しい世界観を獲得するための方法論や可能性を検討しながら、構想力を手にいれる”

 本ゼミでは、レクチャーとワークショップを基本とし、身近なところから抽象的な思考を引き出し、抽象的な思考から具体的なアイデアを形作っていく過程を解き明かします。さらに、絵画、彫刻、映画、写真、広告やプロダクトなど芸術・文化の諸ジャンルを横断しながら、広い視野を持って問いやアイデアを組み立てられるようになるプログラムになっています。

  • 美大・藝大生や卒業生で、作品を組み立てる思考法や語るための技術を得たい人
  • これまで専門的に美術を学んではないが、美術を始めたい、知りたい人
  • 美術史や芸術の創造的思考法を学んで、(美術以外の)制作や思考に活かしたい人

を対象にしてます。
 
ワークショップは、実技指導を目的にするものではなく、作品の見る・考える力を養うものですので、特別な技術や道具などは必要としません。



————芸術が持っているクリエイティブ思考の基礎を学ぶ。————



 ぼくが美術を始めた90年代後半よりも、現在美術と社会の距離感はずっと近くなり、より直接的な関係を持つようになりました。それはソーシャル・メディアを中心に加速している情報環境の変化、震災やグローバリズムによって顕在化した差別やテロリズムと不安定で不平等な経済状況、そして政治的力学の強硬化が大きな要因となっていると見ることができるでしょう。

 美術と社会の距離感の変化については、二つの特徴を指摘することができます。一つは、美術で養われてきた方法や実験が、意識的・無意識的、直接的・間接的に社会の中のさまざまな場所で拡散的に利用をされるようになったことです。そのため現代は誰もが美術的な活動や思考に関わる可能性を持った社会にあるといえます
 もう一つは、作品や活動の試みが、文化・芸術的な文脈や造形的な目的よりも、社会学やジャーナリズム、社会運動のようにダイレクトに社会、地域、共同体をテーマにして行われるようになったことです。

 これらは、ポスト・インターネット、ソーシャリー・エンゲイジド・アート、スペキュラティヴ・デザイン、芸術祭による地域振興などが生み出されている背景にもなっています。このような現在の状況は、作家の活動を美術界の閉鎖的な環境から解放し、社会全体の動きと芸術活動が連動するものにしました。
 しかしさまざまな形で拡散を強める美術(アート)の多様化は、必ずしも美術(アート)の考えが日本の社会に浸透したこととイコールであるわけではありません。美術(アート)はある部分で内側の思考を失い、それぞれの活動が分断され、空疎化しているところもある。さらに、美術(アート)は社会的な要請や状況に関わろうとするあまりにモノのへ思考やモノの権利が希薄化し、人間中心主義的な認識の外部を示せなくなってきています
 また、インターネットとリアルの区別がなくなり、シームレスな情報化社会の成立が指摘されるようになりましたが、(確かにインターネットの社会への浸透が小さな変容ではないのですが)、それに対する過大評価は楽観的な誤謬を孕みます。なぜなら、インターネットの中の現象や出来事は変化が早く、あらゆるものが一過性のものとして流されてしまうからです。そして、世界にはいまも地政学的な距離の問題が大きく存在しており、現実を動かす/認識しようするときに、インターネットが全面的に有効であるわけではないからです

 このゼミでは、長期的なスパンで物事を見る目を育て、どのような表現形式を採用するにせよ、美術という領域を外しても考えることのできる芸術的思考(自立的な思考)を得ることを目的とします。少し大げさにいうのではあれば、レオナルド・ダ・ヴィンチ、パブロ・ピカソ、マルセル・デュシャンのように、作品制作や観察を通して社会に通底する視座を獲得し、新しいヴィジョンを創造する構想力を手にいれるための準備に取り掛かりましょう!


開催詳細

講座名 :石川卓磨ゼミ「芸術のこれからとここから|作品を作る/語るための方法と理論入門」

開催場所:武蔵野プレイス
     「武蔵境駅」南口下車、徒歩1分


開催日時:第1回|2016年8月20日[土]19:00〜21:30
     講義室:
武蔵野プレイススペースE
     開場時間:18:40

     第2回|2016年8月21日[日]19:00〜21:30

     講義室:武蔵野プレイススペースC
     開場時間:18:40

     第3回|2016年8月27日[土]19:00〜21:30
     講義室:武蔵野プレイススペースE

     開場時間:18:40

     第4回|2016年8月28日[日]19:00〜21:30
     講義室:武蔵野プレイススペースE

     開場時間:18:40


講師  :石川卓磨(美術家/美術批評)

定員  :最大15名

受講料 :7500円(全4回)4回まとめて申し込む方優先。1回のみ受講の場合は2300円※募集は終了しました。


申し込み・お問い合わせ先

aslspbank@gmail.com

※申し込み時にはお名前/メールアドレスを明記下さい。 
上記のメールアドレス宛にお申込みください。その後、振込先や事前確認アンケートなど詳細のメールを送信いたします。※事前確認アンケートを見て講義内容を調整します。
※ご参加される方それぞれが各自のお名前で個別にお申込み下さい。
※受講資格はとくにありません。
※電話による申し込み・お問い合わせは受付けておりません。


2016年7月3日日曜日

なぜ三宅洋平は選挙演説でマラドーナを歌ったのか。

僕が三宅洋平を支持するのは、大きな前提として、山本太郎への信頼がある。そして三宅が言うように、山本を国会で一人で戦わせるのは、あまりにももったいないという考えがある。
もう一つは、三宅には他の候補者には見られない方法論があり、彼は、亀井静香的にいえば、(選挙に勝ち国会で戦うためには)「まさに身を捨てることを厭(いと)わない政治家」[註1](亀井は志位和夫をこのように表現した)であるということだ。
彼は前回の選挙で、17万票を超える得票数を集めたにもかかわらずが負けた。無所属である彼は大きな政党よりも選挙においては明らかに不利である。同じことを二回繰り返したら受かるというほど、三宅は能天気な人間ではないだろう。前回とは違う確実に勝てる戦略を立てられなければ、音楽家にとって様々なリスクを孕む選挙にもう一度出ることはしないだろう。
保守系の選挙分析には三宅をこのように分析している。

“共産党同様、政権与党の不満の受け皿となり、自民、民進の2議席目を奪い去るのではないか。
所謂、売国議員が当選した際に、保守層は「○○県の民度は低い」という事を叫ぶ。
先の山本太郎議員が当選した時も同様、「東京都民の民度は低い!」とネット上で度々言われた。
しかし、愛国議員当選のためにできる事~無党派・無関心層の投票の呼びかけ~にも書いた通り、ネットでのネガティブキャンペーン以上にリアルでの無党派層の呼びかけが重要だ。
三宅洋平候補を当選させたくないと保守層は思うなら、一日でも早く身近な人達に投票を呼び掛ける事が最善である。”[註2]


この分析は正しい。ただし補足が必要である。政権与党の不満があるのは実は、自民党、公明党支持者の中にもいるということである。では、この層が共産党や社民党に入れるかといえば入れないだろう。そしておそらくそういう人たちにとって、自民党と同じか、それ以上に不審を抱いている民進党に入れる人も多くはないだろう。
三宅はこの層を今回積極的にターゲットにしているということである。三宅が保守/リベラルの二元論を退けていることにも注目すべきだ。そのうえで、その二元論を、無党派層に啓蒙することもしない。むしろ別の枠組みを提示する。これは経済的な枠組みともいるだろう。
無党派層に対するアクションは、シールズを中心にしてファッションとコラボしながら野党も積極的に推し進めている。これは素晴らしいことだと僕は思っている。しかし、あのイメージ戦略だけで無党派層を十分に動かせるだろうか?
これまで選挙に行かなかったが行く可能性のある潜在的な層を、シールズなどのやり方で全てフォローできるだろうか。
この問題において、わかりやすくするために男性アイドルグループ例にしてみよう。
これまで男性アイドルは、ジャニーズだけが一人勝ちであった。そして、他から出てくるアイドルグループはことごとくジャニーズの前に潰れていった。そのなかで、アイドル枠で明確な住み分けを行った(色黒、マッチョ、ヤンキー系など)エグザイルは、潰されることなく規模を拡大することに成功したのである。この例に反感を覚えるかもしれないが、アナロジーとして抽象化して考えて欲しい。
シールズをジャニーズに例えるならば、三宅はエグザイルなのだ。
三宅のイノベイティブな姿勢が、民進党の候補者にあるだろうか。
過剰とも言えるはっきりした態度、熱狂とも言える煽りが、(ある意味で)悪名高き創価の選挙作戦を取り込む方法が野党にあるだろうか。
イノベイティブなものへのアクセスは二つのいいことがある。一つは、与党の考えに対する 否定以外のポジティブな提案を作ることができる。もう一つは、選挙に興味がない人々に関心を持たせることができるということである。
それをカルトというのは早計なのだ。イノベイティブなことを行おうとしている人たちは、今できなくても新しいことができると思って、それで人と惹きつけるというのは前提だからだ。
世界を変革させるためには、技術革新などを行うためには、未来を想像する構想力と、その未来に対する圧倒的な集中力が必要だ。自分が考える未来が本当にできるかできないかを迷ってる人に発明もイノベーションもできないのは大前提だ。それがトンデモであるなら、意識の高い企業もすべてトンデモとなってしまう。
誰もが信じられるわけではないのはわかる。ただ技術革新は、支持が集まる集まらない、思いだけで成功はしない。憲法改正とは違う。それが可能になるのは、条件を満たす具体的な技術と環境を作くれて初めてできるものだ。だから、できないものはできないので、それ自体に危険性はないので恐れることはない。
これはスポンサーとして企業を、あるいはクリエーターを味方につけられる可能性もあるかもしれない。
野党がもし与党に負けたとする。そのとき、野党支持者はこういうかもしれない。というか今まで言ってきたことだ。今回勝てないことは、想定内だった。だから気持ちで負けてはダメだ。選挙に不正があったとか陰謀論も言うなと。確かにそれは正論かもしれない。しかし心のどこかで負けを知っていると言ってしまってはダメだというところもあるのではないか。
ここでもう一度亀井の言葉を引用するなら「なんでおまえらは行儀の悪いことをいやがる」なという態度、三宅はそれを貫いている。
三宅がマラドーナの曲を歌うのは、まさにその態度である。
彼は神の手を信じている。自民党はいくらでも嘘をつき、勝ってきたではないか。公明党は学会員を組織して(一定の枠内であれ)必勝の戦術をとってきたではないか。それに負け続けてきたことを考えなければいけない。少なくとも民主党が与党をとって、野田に帰結してしまったことを知っている国民をもう一度動かすにはどうすればいいのか。
この三宅の考えを危険視するのは簡単である。しかし、前回の都知事選を思い出して欲しい。
宇都宮健二と票が割れるなど、強い批判を受け、さらに負けた細川護熙とは違い、三宅は野党と異なる方針をうち立ててるということを考えて欲しい。
山本太郎が、彼を擁護するのも、そこの部分を信じているからだろう。僕が思うに、三宅はギリギリなことをいっても、一線を越えてない。そして彼はどんどん民進党とは違う態度を取っている。これについて恐れる必要はない。なぜなら、横に山本太郎がいるから。もう一つは、三宅本人が言っているように、もう野党/与党を信じている人は、彼に票を入れない(彼はそこから票を取ろうとは思ってない)。そして、もちろん野党支持層から票を取らないとは言わないが、彼はそれ以上におそらく与党支持者の中の不満枠と、野党になかなか入れないであろう無党派層(潜在的な支持層)から、票を多く取るだろう。
だから、私たち(野党支持者)が考えなければいけないのは、野党と三宅ではなく、与党と三宅、日本会議や経団連みたいな保守枠と三宅だということを考えるべきだ。で、それが危ういと思っている人は、三宅に入れる必要はないし、恐れる必要もそれほどない。なぜなら野党支持者は、僕のようなことを考えないかぎり三宅を擁護できないのだから。

註1:http://www.asyura2.com/16/senkyo207/msg/773.html
註2:http://www.houan-yes-no.com/senkyo/sangiin2016/toukyousenkyokujousei.html