2013年2月27日水曜日

【映画】 『上海特急』




ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『上海特急』(1931年)は、転向を扱った映画である。厳密にいえば偽の転向を主題とした物語だ。1930年代の内戦下にある中国で、北京から上海に向かう特急電車に乗り合わせた者たちが巻き込まれる事件の話である。そして、マルレーネ・ディートリッヒ演じる「上海リリー」と、英国軍医のハーヴェイ大尉の二人がこの電車のなかで偶然再会する。彼らは五年前に別れた恋人同士だった。ハーヴェイと別れてからリリーは、さまざまな男と付き合い金を貢がせるような生活をしていた。しかし、リリーも自分の淪落による変化の大きさを感じながらもハーヴェイのことを愛し続けていた。そしてハーヴェイも変わらず気持ちは同じであった。しかし、特急列車は叛軍の襲撃にあい、乗客は叛軍にとらわれてしまう。叛軍のリーダーであるチャンは色欲魔として描かれ、高等教育を受けた中国人のフイ・フェイを強制的に犯してしまうような男である。
そんなチャンに、リリーが口説かれているのを聞いて、ハーヴェイはチャンをはり倒してしまう。それによってハーヴェイは囚われ、焼きごてで目をつぶされそうになる。リリーはそれを防ぐために、ハーヴェイと別れを告げ、チャンとともに行動するとこを承諾する。しかし、ハーヴェイは、自らの身代わりとなるためにリリーがチャンについていくことを知らないため、リリーの行為を裏切りと考え激怒してしまう。
結果チャンは、 フイ・フェイに殺され、リリーとハーヴェイは再び一緒に特急列車に乗って上海に向かうが、ハーヴェイの憤りは収まらない。しかし、リリーはハーヴェイに真実を語ろうとも説得しようともしない。何故なら信頼とは、そういう裏切りを越えるものとしてあるべきと彼女は信じているからだ。
きわどい言い方であるが、ハーヴェイにとってリリーが淫売婦になった時点で、汚れた存在として認識し得たはずである。なぜハーヴェイは、チャンとの不義理が許せず、それを許せたのか。おそらくそれはリリーが彼と別れたことで淪落したと理解できたからだろう(これも酷い言い方である)。チャンによるリリーの裏切りが、ハーヴェイを傷つけたのは、それは彼女がハーヴェイではなく、チャンを選んだというところにある。だが、リリーは、ハーヴェイと元の二人の関係に戻れると信じていた。

これをメロドラマに回収するより、もう少し抽象化して考えよう。語らなくてもそれが偽の転向であることがわかるはずだと信じるリリーの信念はどこからくるのだろうか。彼女が語ろうとしないのはなぜだろうか。それがこの映画の主題なのである。
相手を信頼しているからといって、相手を裏切らないとは限らない。相手を絶対的に信頼しているからこそ裏切りの行為を遂行してしまう話というのは、偶然にも先日観た根岸吉太郎監督『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』(2009年)も同じであった。そして、『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』は、敗戦国である日本の戦後直後の過酷な状況が刻印されているが、『上海特急』は戦中の状況下での緊迫した状況が刻印されている。語ら(れ)ない理由はそういう緊迫感のリアリティーから生まれている。
結果として行われる裏切りがなければ、生存を許されない状況下での信頼関係、それは書類的な記述の外部にしかない信用問題である。そのメッセージを読み取れるかどうかというのは、単に精神論的な盲目性を意味しないはずである。相手から発せられる、私にしか通じないメッセージを私は正確に読み取らなければならない。さもなくば誤って、相手を殺してしまうことになる。『上海特急』では、このような類いの伝達の可能性が描かれていた。

2013年2月18日月曜日

【映画】 トッド・ソロンズ監督『おわらない物語 アビバの場合』



長い間おろそかにしていたこのブログ。次書く記事は、映画ではなく美術にしようと思っていたが、結局また映画を書くことにしてしまう。
また、今週はジャ・ジャンクーの映画を二本観たというのに、それについてではなく、トッド・ソロンズ監督の『おわらない物語 アビバの場合』(2004年)について書こうと思う。

『おわらない物語 アビバの場合』の英題は、『Palindromes』である。Palindromeの意味とは「回文」であり、Palindromesその複数形である。Palindromesは、Aviva(アビバ)という12歳の少女の名前が回文であり、そして人種・年齢・性別も異なる8人の役者たちが、Avivaを演じているプロット自体を示しているといえる。物語は、回文的に機能するような循環構造ではなく、おわらない物語でもなく、ひとつの成長物語である。
この映画は、子供をたくさん産みたいと夢見る少女の「幸せな家族」という健全な願望は、行為の遂行があまりにも若すぎるタイミングであったことから中絶などを経験し(つまりその「健全さ」の恣意性を皮肉っている)、いろいろな試練を経た後にもう一度子供を宿す物語だ。
話は笑ってしまうくらい過酷な物語で、トッド・ソロンズお得意のどうしようもない人間のどうしようもない物語でもある。ただ、彼の前作の『ストーリー・テイリング』(2001年)の余白もなにもないようなシニカルさよりも、可愛らしさが際立った映画だった。そこがこの作品を魅力的なものにしていたと思う。アメリカにある典型的なキリスト教や道徳的なものを徹底的反転させてみせるソロンズのシニカルな態度から、笑いや感情の動きを排除してしまうと、批判は痛烈だとしても単純な図式でしかない。だから、僕は『ストーリー・テイリング』を退屈だった。そして、『おわらない物語 アビバの場合』は、『ストーリー・テイリング』よりも安心して観ることができるということだけでなく、ソロンズの試みの細部にまで入っていくことができたのだ。
 
さて、「人種・年齢・性別すらも異なる8人」とさらりと書いてしまったが、複数の人間が一人の少女を演じるのは、プロットとして小さいものではない。一人の役を複数の役者が演じることは特別にめずらしいわけでもないが、この形式の採用は、この作品に効果的な作用を与えていたし、この類の映画のなかでも成功していると感じられる作品だと思えた。
この成功とは、本作がとても写真的に感じられたことと関係する。それはどういうことか説明していこう。8人の役者は、そのほとんどがハリウッドで役者となりえる風貌の基準から外れた容姿をしている。太っていたり、赤毛だったり、やせすぎだったり、骨張っていたり、だんごっぱなだったりと。にもかかわらず、彼女たちはとても愛らしい。(ちなみに唯一男性でアビバを演じているウィル・デントンは、このなかでは群を抜いて美少女に見える。)
それぞれのパートを演じる役者たちは、物語のなかのアビバの変化と共振しながら、言葉では言い表せないような鈍い意味(プンクトゥム)を表情のなかに有して、観る者の感情を大きく揺さぶる。おそらく、ソロンズはこの役者たちを俳優としてよりも、写真のモデル・被写体として見ていたように思われる。その被写体の魅力は、商業映画では排除されてきたような人間の表情の魅力である。

映画俳優を、役者ではなく被写体としてみると、相貌の語彙の幅というのが写真よりも狭い。 実際写真のほうが映画よりもはるかに多様なタイプの人間の魅力を引き出してきた。写真で被写体を魅力的に撮る技術は、そんなに簡単ではない。さらに鑑賞者とは無関係の人間であり、いわゆる美形な人間ではない被写体を撮りながら、愛おしさ感じさせ、感情が揺さぶるのは難しいが、そういう優れた写真は多くある。現実では立場も人種も環境もまったく接点もない人間や、自分の好みのまったくタイプでもない被写体に、写真のなかでは魅力を感じ、感情を揺さぶられたりするのはなぜだろうか。その原因は、単に人の姿を見ているのではなく、言葉にはなりにくい、言うと陳腐にしかならないような物語が生まれていることにあるだろう。それは自分の卑近な現実を括弧に入れることで見える、同時にこういう人間がいることを現実として受け止められることによる広がりである。これは、物として人体を扱うことで生まれる美しさや、プリントによって引き出される美しさではない。
『おわらない物語 アビバの場合』でも、お世辞にもかわいいとはいえないような役者から、こちらが動揺するほどの魅力を引き出されている。これは写真的だと僕は考えるが、ただ彼女たちの魅力は止まっているなかで見えてくる美しさではなく、運動のなかで際立って見えてくる愛らしさだと思う。少なくともこの映画のなかで最も魅力的な部分を担っているシャロン・ウィルキンズのどうしようもない可愛らしさは、写真では発見できない。その魅力とは、演出とカメラの設計からある程度映画の物語と関係し、同時にある程度は映画の物語とは無関係に現れていると感じる。

この子供を産みたいと願う12歳のアビバが妊娠するまでの単純だが過酷な物語は、登場人物たちの社会的な認識の欠如や不器用さによる過ちの連続であり、アメリカの階級や人種などの社会認識を風刺する笑いを持った典型である。しかし、ここでは妙な抽象性と軽やかさがあるような気がする。この手の物語は、笑いと同情が癒着としてべったりとしたセンチメンタリズムに収束しやすいが、そのような映画とこの映画が一線を画していることは、この抽象性と軽やかさによるものである。
この映画が持っている差別や社会格差などに結びついた笑いと文学性は、排除された者たちや敗者の眼差しである。だが、アビバは社会的な規範から乖離し、過酷な現実を前にしても少しも後悔も反省もせず、自分の思い描く理想=妊娠を探しつづけている(それは最後に改めて知らされる)。つまり、そこには諦念が全くない。この肯定こそが、ソロンズの作家性であり、この作品の素晴らしいところだ。そこはまるで大島弓子の漫画ようですらある。大島弓子作品の映画化はことごとく失敗しているようだが、この映画が大島弓子の原作であったとしら、僕はそのことに納得するかもしれない。

2013年2月3日日曜日

グループ展に参加しています。

 
渡辺泰子企画 グループ展「地上より」
Group Exhibition Curated by Yasuko Watanabe “From the Ground”
2013年1月19日(土)~2月23日(土)
11:00 ~ 19:00 日・月・祝祭日休廊
GALLERY SIDE 2
この度、GALLERY SIDE 2では、今週末1月19日(土)から渡辺泰子企画グループ展「地上より」を開催致します。
また、2月2日(土)には、日本では数少ないSETI※研究者の1人である兵庫県立大西はりま天文台 天文科学専門員の鳴沢真也氏をお招きし、特別トークショーを開催致します。
ご来場を心よりお待ち申し上げます。


展覧会に寄せて

文:渡辺泰子

私たちは大切にできるものがそんなに多くないことも知っているけれど、
だからといって慎ましくいるわけではない。
目玉を動かし、身体いっぱいに手を伸ばし、野蛮な気持ちに心を動かす。

超音速で回転しながら、およそ秒速28kmで移動し続ける乗り物の表面。
足下は安定しない。
この地上より始まったことを偶然とするか運命とするか。
なにより世界が摩訶不思議であることを感じるから、その感触をもっと得たいと思い、輪郭を浮かびあがらせようとする。
ここで行われるたくらみ、愛すべき創造の営みを紹介しよう。

池崎拓也氏は海を陸を悠々と飛び越え、風景を両手いっぱいに懐に抱き寄せる。
引き寄せたそれを身の回りのものに変化(へんげ)させていく眼差しのスケールは伸びやかで、アジアを体感しようと試み続けてきたからだろう独自の伸縮性を持っている。
彼の見ようとしている世界がなにげない物質にすり替わる瞬間に、現実とフィクションの境界線は揺さぶられる。
そこにしかない場所/作品、それでしかありえない風景/作品をつくる視点が作品に浮遊感をもたらし、世界を温かくふくよかなものにしてくれる。

石川卓磨氏の視線は、ときにユーモラスに、ときに暴力性をもって表わされる。
それは対象に深い愛着を感じている眼差しでありながら、同時に人間の解釈/誤読がたどり着く滑稽さをあばこうとするものでもある。
更新され続けてきた世界への考察、可能性への飽くなき好奇心を糧に、カリカチュアの側面を持ちながらも時空を超えようとする作品群は、
地面を踏みしめる足のざらついた感触を再び思い起こさせてくれるのだ。

そして、今回特別トークにお呼びする鳴沢晋也氏。
鳴沢氏は、兵庫県西はりま天文台に勤める天文科学専門員として、日本におけるSETIの活動の第一人者として精力的に活動を続けてこられた。
SETIとは地球外知的生命体探査(Search for Extra-Terrestrial Intelligence)の略であり、天文学の一分野である。
1960年にアメリカのFrank Drake(フランク ドレイク)氏が国立電波天文台で実施したのが最初で(オズマ計画)、その後もアメリカを中心に観測が続けられている。
主に電波望遠鏡で受信した電波を解析し、地球外知的生命から発せられたものがないかを探すという活動である。
鳴沢氏は2009年全国同時SETI「さざんか計画」、2010年オズマ計画50周年記念の世界同時SETI「ドロシー計画」のプロジェクトマネージャーを勤め、現在も来るべき日に備え、活動されている。
地球外生命の発見は時間の問題と言われている今、
その、広大な宇宙にむけて耳をすます活動の原動力となる想像力とはいかなるものなのか。
鳴沢さんは「なにを」準備しているのか?
私たちは孤独な存在なのか?
遠く兵庫県からお越し頂くこの貴重な機会を大変光栄に思う。

先に伝えておこう、私の考えはこうだ。
この地球上で起こっている出来事の不思議さを思えば、自分の想像を遥かに越えた出来事はまだまだ私たちを待っている。
知ることを待つ。知るために準備する。そして、たぶんほとんど知らずに死ぬ。
それでもそう、私たちだけだなんて、スペースがもったいない。

最後に、この展覧会から受信されたものが、さらにこの世界を魅力的なものにしてくれることを願う。

ーーイカットは足を止めて、祝杯をあげる真似をした。
「来るべきすべての世代の人々が、自分では完成させることのできないなにかを、はじめられますように」
グレッグ・イーガン『プランク・ダイブ』所収「伝播」 山岸真訳(早川文庫SF)

ART CRITIQUEに作品とインタビューが掲載されました。

ART CRITIQUEに作品とインタビューが掲載されました。
書店などで手に取っていただけましたら幸いです。

ART CRITIQUE n. 03 散逸のポエティクス
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注目の美術家・石川卓磨の新作「quarter」、そしてインタヴューを掲載。写真とテキストによる独自の表現。インタヴューでは、シャルダン、スーラ、映画をつらぬく写実の問題を語る。
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矢野静明×上田和彦、二人の画家によるロング対談を掲載。フランシス・ベーコンなどを題材に、「動くもの」としての絵画のポテンシャルを探る。
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思想史家の王寺賢太のロングインタヴューを掲載。ミシェル・フーコーのカント論をきっかけに、人間の自由の可能性を問う。
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デザインはデザイナーの宇平剛史さん。一風変わったつくりになっていますので、発売しましたら、ぜひお手にとってみてください。
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2013年1月31日発売予定
本体1600 円+税
A5 判並製 モノクロ200頁
ISBN:978-4-9905499-3-0 C0070
発売:constellation books




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