2012年6月28日木曜日

【小説】夏目漱石『泥棒』

夏目漱石の永日小品のなかには『泥棒』という作品がある。非常に短く小さな物語だがとても面白いのだ。これは夏目漱石の家に泥棒が入った話である。しかし、そこで描かれる泥棒とは、人間だけでなく鼠が含まれる。漱石の家は、帯泥棒に入られた次の日に鼠に鰹節を齧られてしまう。二日連続で家の部外者からの損害を被るのだ。
この作品内では、二つの出来事に対する夏目の家の者たちの反応について淡々と語られるだけで、物語としての結びつきが説明的に語られることはない。小説は解説文ではないのだから説明ではなく示されることによって成立している。そのため、ここで何が描かれているのか少し詰めて考えてみたい。

一日目は帯泥棒に入られる。
漱石は、泥棒に気がついた下女の泣いている声で目を覚ますのだが、泥棒はすでにおらず、荒らされた箪笥だけをみる。それで家は大騒ぎになるのだが、この時点でいったい何が盗まれたのかはわからない。そして、明くる日の巡査の調べで、帯だけ10本盗まれていることがわかった。

次の日の夜。ナーバスになった漱石の妻が不審な音に目を覚まし、漱石も起こされる。その時下女は鼾をかいて眠っている。泥棒のものかと思った不審な音は、鼠が何かを齧っているものだと気がつき、2人は安心して眠りにつく。そして、次の日齧られた鰹節を見て、鼠を追い払い鰹節をしまわなかったことを彼は後悔する。

前日に泥棒に入られなければ、漱石は鼠を見過ごしはしなかっただろう。なぜなら、漱石と妻は泥棒に入られたという大きな出来事に対して、鼠に食べ物を齧られることの損害と危険を小さなものとして理解し安心したからである。なんだ鼠か、と片づけてしまったのである。

犯行に気がついているにもかかわらず、何も行動に出なかったという自体は、帯が盗まれる時にもあったことが書かれている。
1日目の帯泥棒の存在をずっと気がついていた者がいる。それは漱石の長女だ。彼女がなぜ泥棒の存在を周りに伝えようとしなかったか、犯罪を食い止めなかったのかについて書かれていない。想像してみると、十歳である彼女にとってそれはあまりにも勇気を必要とする行動であり、自らを危険に晒す行動だったことは想定できる。つまり、彼女がなんらかの行動に出られなかったことは当然のことであって、誰も彼女を責めることはできないだろう。だから、ここではその事実以上のことが書かれていないのだと考えるのが正しいかもしれない。

実際、人は、泥棒に何かを盗まれるよりも、泥棒に傷害あるいは殺人を引き起こされることの方を恐れる。もちろん後者の方が損害が甚大だからである。だからこそ、物を取られようがその場では抵抗せず素直に従うか、もしくは息をひそめる判断をする。つまり、損害に対する認識が、人の行動を制限するないし、影響を与える。

ここでは目の前で行われている犯罪をやり過ごしたという意味で、鼠を、ああ、鼠かと安心してしまって所在を突き止めず犯行も食い止めなかったことと、長女が泥棒に気づいているにもかかわらず、泥棒に気づかれてしまうことが恐ろしくて何もできないことが対照的なものとして結びつけられている。
ここで二つの盗難を捕まえられたかもしれないが取り逃がした原因を整理してみよう。

・泥棒は物を盗むが、人も殺すかもしれない。
・鼠は食べ物を齧るが、人を殺すことはない。
・泥棒は高価な物を盗むかもしれないが、鼠は高価な物を齧ることはない。

これらの想像力が前提となっているため、帯泥棒の場合泥棒に入られたその出来事自体の衝撃が大きく、実際何が盗まれたのかわからなくても、誰かに家に入られ箪笥が荒らされただけで、住人は大きく戸惑う。

ほんさくでは、泥棒をとり逃がすことについてもう1つのケースが描かれている。それは、刑事である。

“泥棒は大抵下谷、浅草辺から電車でやって来て、明くる日の朝また電車で帰るのだそうだ。大抵捉まらないものだそうだ。捉まえると刑事の方が損になるものだそうだ。泥棒を電車に乗せる電車賃が損になる。裁判に出ると、弁当代が損になる。機密費は警視庁が半分取ってしまうのだそうだ。”

刑事は、泥棒の犯罪経路によって捕まらないことを言っているようで、実は損になるからあえて捕まえようとはしないことを言っている。泥棒は捕まらないのではなく、警察が捕まえようとしないのである。刑事も人間だからということなのか、警察の使命感や正義感よりも極めて打算的な損得勘定で動いているというのだ。確かしに世の中の警察を見ていても、そう思うことは多々ある。被害者と加害者の関係ではなく、第三者(刑事)の損益を絡ませるのも面白い。このような問題を圧縮しつつ、さりげなく書き上げる漱石の手さばきは見事だ。

ここで提出されている犯罪(者)に対する三つの態度は、単に犯罪に対する一つの見識として考えるものではないように思える。出来事に含まれている好機や真実を先入観や損得勘定によって取り損ねてしまうことは、犯罪に限らず人の認識として広く考えることができるだろう。これはそういったものに対する寓意にもなっていると思う。

2012年6月20日水曜日

【雑記】支持者は消えず、相対的には増えている。

※ひどい文章なので少し訂正しました。

作品がなければものを考えられないのではいけない。ここでは作品分析以外のやり方でも文章が書いていきたい。今回は特別何か新しいことを考えられているわけではないが、自分なりに書いてみようと思う。

文章は、今やネットという公の場で好きなだけ書くこと、発表することが許されているし、いつでもどこでも誰でもできるようになった。小学生から90歳の老人まで、誰もがやろうと思えば簡単に文章を公開できる。推敲して文章を書くことも可能だが、思ったことを瞬時に書き、それをブログやSNSに発表できる。この変化とは、悪影響であるので以前に戻すということが不可能な類いのものである。

とはいえ、個人やある特定の共同体なかでの生活や仕事に対する考え方、律し方はいろいろ可能だろう。ネットも携帯も持たないという抵抗だってできる。しかし、世界全体がネット以前の状態に戻るということはまずありえない。

インターネット普及以前は、文章を社会に発表するためには、本や雑誌、新聞やTV、ラジオなどのメディアを通さなければならなかった。もし、自費出版だとしても、それなりのコストと手間がかかった。発表する上でかかる負荷が、作品や発言の内容を支える下部構造として機能していた。
作品を(自己も含めた)検閲や校正することは「洗練」と呼んでいいはずだが、「洗練」とは経済性や市場性を抜きにしては考えられない。この「洗練」があるからこそ、オルタナティブが可能であるといえた。オルタナティブが不可能になったといいたいわけではない。すべてがオルタナティブであるともいえるがゆえに、オルタナティブな活動は、さらに活発化している。
そして、今も業界が保証する「洗練」が存在しないわけではない。それが完全に無くなることもないであろう。しかし、その業界の「洗練」が占有していた価値は、揺さぶられているのは確かである。
誰もがいつでもどこでも簡単に発表、発言できることで「洗練」とその信頼に対する価値が今大きく変わりつつある。
何もかもがなし崩しにダメになっていると書いているわけではない。つまりすべてが変わるといってるわけではない。また、この変化がネガティブにしか働かないとは僕自身は考えていない。
このことは考えるべきものがあるし、実際にこういった類いの研究や言及は非常に多くある。

たとえば、洗い練られるその過程とは、濾過と同じく発表までの時間とコストがかかり、多くの場合、文字数や形式、内容は指定ないし制限がされる。例えば現代美術の作品の展示はそのような制約が非常に強く、コストパフォーマンスがものすごく悪い。そうすると、展示の意味とはどこにあるのか。業界の外の人の誰しもが一度は考えるように、現代美術はそのコストパフォーマンスの悪さを「裸の王様」的にフィルターをかけているにすぎないのではないか。一見自由に見える現代美術は、業界の歴史が作り上げた様々な作法が形骸化し、制度化されていることでひどく不自由な場になってしまった。いや、不自由が悪いわけではない。しかし不自由さを問える場ではなくなってしまったように感じる。すべては外部との関係(ズレ)でしか現れない自由(メタ的な立ち居位置)。

業界が作り上げた検閲、校正の制度が、作品の商品化の前提条件をなしていたわけであり、この「洗練」の行程を省くことは、作品や発言の質や信頼に関わる問題である。現代美術を例に挙げるとわかりにくくなるが、文章はそのような過程をふむことで信頼と責任を作り出していた。
TVで間違った情報を流すことと、個人が間違った情報を流すのでは、意味と責任が全く異なる。

しかし、今や正確な情報とはどこにあるのか、誰もわからなくなってきている。そもそも「洗練」はどのような基準を持ってなされているのか。この検閲機構にある根深い官僚主義に対する不信感は大きい。テレビではリスクを避けるためのつまらないコンテンツが大半を占め、しばしば製作者側からもその不満が聞かれる。正確な情報と、(誰かにとって)安全な情報は別だが、今やテレビは安全な情報しか伝えなくなってきている。

それは倫理的な問題だけではなく、面白さや情報の速度、具体性に対する対応も不十分でそれが露になっている。 大きなメディアは市場を先導し占有してきたはずだが、市場全体をコントロールすることはどのメディアも不可能になってきているだろう。
人は、必ずしも無害なコンテンツを求めているわけではない。少なくとも3.11以後のネット上での様々な議論はネットでしか可能になりえなかった有益な議論がなされていた。

もう1つは、多くの人が著名人や知識人が持っている人格や知識や関心の一面的なものではなく、複数の側面に興味を持つようになった。
彼はどんな本を読み、どんなジョークを言い、どこへ行き、どこで夕飯を食べ、誰としゃべり、何の映画を観て、どんな弱音を吐き。いつ眠るのか。そういうものを求めている人は多く、また、つぶやけるようになればそういうことをつぶやきたくなる。

ネットで膨大にあげられている文章とは、人の思考のだらしなさ、猥褻さ、散漫さ、多様性、暴力性が剥き出しになって現れている。いかに読者(書き手も1人の読者である)に中毒性を与えるのかが明らかになった。人はそういうものを覗き見したいという感覚がひそんでいる。それは文章が読まれる環境の変化も大きい。仕事中の合間に、トイレのなかで、電車や、赤信号の間で文章は読まれるようになった。
何かと何かのわずかな合間で読まれる文章。このこと自体に対して良し悪しの価値判断はしない。人が、文章や作品に求めるものが広がってきている。
一応断りを入れておくと、作品や文章に対する質の問題が全面的に変わるなどということはありえない。過去の作品は今も変わらず重要なものはあるし、現在も質の高い作品は生産されている。しかし、全く変わらないこともありえないだろうがここでの前提である。

しかし、ネットのある意味でのアナーキーな状態はどこまで続いていくのか。ネット上では日々、有害な文章や犯罪的な行為が多くあげられている。それが作り出すデメリットはいかなるものかを考えなくていいはずはない。多くの場所で、管理の必要性が求められているのもまた確かだ。
その一方で、ネットを使った膨大な発言の相当量が(人為的でなく、自動的なものだとしても)監視下にあり、データ化されている。そういう監視やデータ化、あるいは検閲がどのような危険性を持っているかは多くの人が考えている。
また、自由に発言することは許されるにしても、影響力を持つことを許されないような状況がありえるかもしれない。

ところで、最近感じることがある。それはもしある著名人や発言に影響力を持った人間が、問題発言を繰り返ししたとしても、あるいは、何かで警察に捕まったとしても、一度支持を得た者は、その支持者を全面的に失うことはない。ネットはそのような支持者の存在や意見を顕在化させる。これは、問題のある発言者の生存意識を変えているのではないか。たとえば、1つのスキャンダルが、支持者を増やすことも充分にありえる。
それは、メディア=業界の検閲によって抹消できない存在となる。こう考えてみると、業界から引退を余儀なくされた島田紳介がいかにTVの人間であったかと思う。
紳介とは違い、ネットではいくら炎上し、断罪を求められたとしても、本人がそのストレスに耐えうる活力があれば抹消されず、その影響力を持ち続けることも可能なのではないか。
たとえば、もしある業界から締め出されたとしても、あるいは経済制裁が加えられたとしても、募金を募り、有志者を募り、会社を立ち上げること、あるいは逃げ回りながら影響力を作り出し続けることができるかもしれない。そこで結果を出せば、その人をつぶすことはできなくなる。

詐欺スレスレの犯罪的な活動であるとしても、それがある種の人々の考えや欲望を代弁し、支持を得る。それによって彼/彼女の生存は可能なものになるという状況。
これで開き直っている人間の方が、捨て身でパンクなカリスマよりも多く出てきているのではないか。この開き直りは怖い。彼らには利潤か勝算を持ってあえて刺激的な発言をしているからだ。綱渡りに変わりはないにしても。
あくまでそれは泳がされているにすぎないと言うのであればそうかもしれないが。


2012年6月17日日曜日

【映画】清水宏『風の中の子供』

清水宏監督の『風の中の子供』(1937年)を観た。様式としての完成度は高かく、子供ののびのびとした演出と、整頓され単純化された映像の構築力は確かなものだった。日本家屋のように簡素で整頓された画面の構築と子供たちのイキイキとした姿とは、ここで描かれている物語の状況に沿わされたものではない。なぜなら、この物語は明るくも清々しくもないからだ。子供たちのリーダー的なポジションにいた三平とその家族は、私文書偽造の容疑による父親の逮捕で窮地に落とされる。物語の暗さと映像の美しさや穏やかさには、大きなギャップがある。

父親の逮捕によって三平と兄善太は友達から孤立するばかりでなく、経済上の問題から家族が引き離されてしまう。三平はそういうなかで、寂しさを訴えなんとかして家族がもう一度一緒に暮らせるためにひたすらグズる。高い木に登り、川をたらいに乗って流され、カッパに会うために池に入る。
子供は我慢などできない、どこまでも正直で素直なのだ。寂しいものは寂しい、嫌なものは嫌なのだ。大人の事情などに納得などできない。父親を失った三平の母親はそれに対してあまりにも無力である。
ところでこの映画で三平の母は、驚くほど無表情だ。母親は、感情を押し殺しどうしたら家族全員が生きていけるのか、選べるものを選ばなければいけない。どうであろうとそうしなければ子供を守ることができない。その意味で母の無表情さは、深刻な悲しみの表れである。悲しみを発露できる子供は無邪気さとは対照的である。

ここでわかるのは、悲しみの表現と深刻さの理解は別だということである。それは清水の子供の演出の仕方に関わっており、この映画の暗さと明るさの両義性になっている。子供の悲しみの理解とは、子供の悲しみの演技に反映されている。清水が子供に対して悲しみをどう演出しているのか。ここでの子供は、今の子役のような演技や演出の理解が明らかに不足している。今の子役なら迫真の演技をするであろうところを、三平は漫画みたいに「エ〜ン」と記号的に泣く。三平の演技は深刻さに対して理解が浅く感情がこもっていない。三平の演技は、泣いた次の瞬間には遊びに夢中になり忘れることができるようなものであり、悲しみに対してどこか散漫に見えるのだ。この状況の無理解は、家族がまた一緒に住むことができる、父親が会社をクビになっても新しい会社を作ることができるという素朴で楽天的な考えを持っていることでもある。だから、別の場所に住んでも、友達をすぐに作ることができるのだ。子供のこの理解の浅さとは、大人と同一視して子供を被害者に仕立てない重要な働きを持っているのだと気がついた。

子供は大人の世界で起こっていることを半分くらいしか理解できない。悲しむということがどういうことか、不可逆がどういうことか、理解せずに悲しみグズるのだ。同じ状況に迫られているにしても母の悲しみとは意味が違うのであり、環世界が違うのだ。同時に子供は世界に対して敏感に反応していることが、この映画では見事に表されている。
それがこの映画に明るさと暗さの二重性を含ませていたのだろう。



2012年6月6日水曜日

【映画】木下惠介『カルメン故郷に帰る』について

『カルメン故郷に帰る』(1951年)を観た。僕は、日本初の総天然色カラー映画であるこの作品を素直なコメディなのだろうと思っていたが、観るとかなりシニカルな映画だった。戦後のGHQの占領下にある日本に対する風刺性を持つこの映画が、リアリティを持っていたのであろうことは理解できる。実際この映画では何度も「パンパン」という言葉が出てくる。けれども、日本の被害者意識を映画化することで、戦争責任をなきものにしてしまうという木下に対する大島渚の批判に繋がるようにも思える。
そして、芸術の無理解が大きな主題になっているこの映画は、痛々しいほどのダサさが強調されている。実際こんなに愚鈍な高峰の演技を見るのは初めてで、木下が高峰にいっさいの幻想を抱いていないことがよくわかる。

ストリッパーであるリリイ・カルメン(高峰秀子)が故郷(軽井沢)に凱旋してくる。ストリーパーとは知らない小学校の校長は、文化に従事するしている人が町に来ることはいいことだと彼女を歓迎する。実際カルメン自身も、自らをモダンで高尚な芸術かだと思ってる。しかしそれは裸の王様に過ぎず、文字通り裸になって、ひどい踊りを晒しているに過ぎない。

現に、村人は猥褻なものとしてだけでカルメンをチヤホヤする。村の人たちは裸にしか興味がない。つまりモガの格好をした単なるポルノグラフィーに過ぎないわけだが、そのことに全く気がつかないカルメンは牛に蹴られて以来頭が弱くなったというひどい設定である。カルメンの父親はそれを恥じて嘆き、校長も憤慨する。

また、カルメンの対比として出てくるのが村の芸術家で、戦争で視力を失った盲目の作曲家だ。この作曲家が作る音楽は、故郷を賛美する歌なのだが、ベターっとしてて暗くてひどいものである。つまりカルメンもこの盲目の作曲家もどちらもダメ(それとも、木下はこの作曲家を清く美しいものに見せようとしただろうか)。にもかかわらず、校長は文化=健全としか考えないず、芸術を見ることはないのでその盲人を称揚する。

この盲目の作曲家とカルメンの関係は、町の健全さを守ろうとする校長と軽井沢で観光業を構想している資本家の対立と結びついている。資本にものをいわせ、作曲家からピアノを取り上げ、金儲けのために、カルメンにストリップの興行を行わせる。芸術だと信じているカルメンは、その資本家の猥褻な思惑などいっさい考えない。しかし、ストリッ プの興行によって、すべては丸くおさまることになる。なぜなら、そこで得られた利益で資本家が心をよくし、貧しい作曲家にピアノを返すからだ。作曲家の妻は泣いて喜ぶ。それによって、校長も新しき芸術=ストリップの効果を認める。観客は裸を観て喜んだに過ぎないが、カルメンは自分の芸術を見せたことに手応えを感じ、なんにも気がつくことなく意気揚々と東京に帰っていく。

すべてが無理解と誤解であるにもかかわらず、すべての人間に利潤を発生させることで、この映画はハッピーエンドとして終わる。晴れたすみきった青空の下での明るい色彩までもが一つの皮肉にも見えてくるこのコメディー映画は、トッド・ソロンズの「ハピネス」にまで結びつくかもしれないなぁと、ふと思ったりもした。


2012年6月2日土曜日

【小説】森鴎外の「花子」について

森鴎外の短編を読むと、これははたして小説なのかそれともエッセーなのか曖昧に見えるものが多い。それは森鴎外にとっての小説の目的が、ジャンル的な意識によっているわけではないからだろう。ただ、鴎外の作品は確かに小説だと思う。小説という方法はいくつかの利点があるのだろう。
大きな要素として小説は、比喩的、あるいは「わたし」を分身的(二重性)に語ることができる。もう1つはすべてを説明し、結論としてまとめる必要はなく、枠組み自体を放り投げるように提示し完結させることができるからだ。その着地の仕方とは、方法としての小説の1つの大きな可能性である。もちろん、このことは鴎外に限ったことではない。ただ、それほど鴎外の作品を読んだことのないが、少なくとも僕が読んだ作品は、着地や問題の提示の仕方が独特な感覚を持っている。それは小説というよりもまず批評的であり、かつ小説という方法によって導きだされる批評的な眼差しの提示。

鴎外の短編小説「花子」も、その類いの作品だといえる。
「花子」では、彫刻家のオギュースト・ロダンと、日本人でロダンのモデルになった花子、そして花子をロダンに紹介し、仲介と通訳として呼ばれた医学生の久保田の間で交わされるやり取りが描かれている。

久保田の仕事は、すでに巨匠として認められているロダンに花子を紹介すること、そして花子にヌードになることを承諾させることであった。この仕事が描かれる上で、二つの部分がポイントになる。
一つは花子にヌードになることを認めさせる時の久保田の交渉の姿勢である。久保田は、芸術がどういうものかおそらくステレオタイプなイメージしか持っていない。だから、花子を説得するときに、これは猥褻ではないという説明が逆に猥褻な感覚をあるいは小市民的な勘定を呼び起こす。
ロダンと花子の仲介をする上で、久保田の意識にはあきらかに、西洋の彫刻の権威であるロダンに日本の裸の女性を差し出すという生々しさが含まれている。だからこそ、久保田はけして美人ではない花子をロダンに紹介したことを恥じるのである。彼は日本人女性を代表する者としてのモデルが花子ではまずかったと思うのだ。だが、ロダンは、久保田とは全く違う視点で花子を見ているので、久保田の予想に反して花子をモデルとして気に入る。
もう一つは、ロダンと花子がアトリエで制作に取りかかっている間、書籍室で待っていた久保田はボードレール全集の中の「おもちゃの形而上学」という文章を読む部分である。その内容は、子供がおもちゃを与えられ、しばらく遊んだあとに、壊してみようとするとき、子供がおもちゃという存在の背後にあるものに関心が向かう。それは子供がメタフィジックなものを志向していると書かれている。つまり、壊してみようとおもちゃを扱うことで、これがおもちゃでしかないという括弧を外し、背後にある何物かを引き出そうとするのだ。久保田はボードレールのその文章にいたく感心する。
そのあとすぐにロダンが彫刻とモデルの関係について話すのだが、ロダンがモデルから美を引き出すことは、子供がおもちゃを壊そうとすることと強く結ばれている。
「人の人体も形が形としておもしろいのではありません。霊の鏡です。形の上に透き徹って見える内の焔が面白いのです。」とロダンは言う。
ロダンの作品を思い出してくれればわかりやすいが、ロダンはモデルの人体を破壊するギリギリのラインまでいくことで、彫刻の人体のなかにメタフィジックなもの、つまり生命を作り出そうとする。これは、モデルの人間性を無視し、一度「物」として扱うことで、彫刻に新たなるリアリティをうみ出すことである。
それこそがロダンのなかでの美であり、社会的な女性の容姿に対する美的基準が問題になっていないことが理解できる。ロダンは、花子の脂肪の少なく腱が太くたくましい身体を賞賛し、美人ではないというところにいっさいの不満を持たなかったのだ。

ここでは、ロダン/子供のモデル/おもちゃに対する暴力と、久保田が取り持った社会的贈与として女性を差し出すことの暴力が対置することで、この小説は終わっている。いくら芸術的な思想がそこに反映されているとはいえ、ピカソが描き出すような画家/彫刻家とモデルの関係は、明らかな暴力が介在している。そこに久保田/鴎外の解釈は与えられていない。

鴎外はピカソなどが扱った問題を、日本と西洋という単純な枠組みがニセであるということも含めてよく理解していたのだと思わされた作品だった。