アーシル・ゴーキーは、作品のタイトルに詩的な広がりを持たせ、形態の見方に示唆を与えるのが得意な作家だ。彼の作品である《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》(1944)は、直訳すると「アーティチョークの葉はフクロウである」となる。アーティチョークの葉とフクロウという、一見属性として共通点がわからないようなものを結びつけるその手つきは、「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」に代表されるようなシュルレアルスム的性格を確認できる。ただ、フクロウとアーティチョークの写真を並べてみるとこの類似は初めの印象よりも明快であるのかもしれない。フクロウの羽根の重なりや形態と、アーティチョークの葉の重なりや形態の類似は写真を並べてみると明らかである。そして、このアーティチョークとフクロウの類似は、絵画に対する示唆を含んでいるように思う。このことについては後ほど再び言及することにしよう。
また、ゴーキーは《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》と同型のタイトルといえる《The Liver is the Cock's Comb》(1944)を同じ年に制作している。《The Liver is the Cock's Comb》を訳すと「肝臓は鶏冠である」となる。ここでも一見共通点を感じられない肝臓と鶏冠という単語がイコールで結ばれている。これも形態や色彩の類似を示唆させるをいえるだろうか。——鶏冠には、その形態と似ていることからケイトウ( Cocks Comb)という名前がつけらた花もある。しかし肝臓と鶏冠の結合は、アーティチョークとフクロウほどには、明確に理解できない。ゴーキーは、どのような状態の肝臓を見て、さらにどこを見て鶏冠と結びつけようと思ったのか。
一方で《The Liver is the Cock's Comb》は、《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》と比べ、作品とタイトルの関係性がより強く現れている。画面を特徴づける赤、赤茶、白は、具象的なイメージを喚起させる記号的な役割を担っている。ポイントとなる赤、その周りを取り囲むようにして存在する白、画面右側に描かれた二重の楕円の黄色と白、画面の中央の下部分に置かれている茶褐色の色彩は、鶏や卵、肝臓を容易に想起させる。《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》では、複数の鶏による騒がしい運動と、熱を持って引き起こされる炎症や内臓感覚が、色彩によって作り出される形態のリズムによって結び合わされているようだ。鶏の鶏冠を見ると、強い赤みや肌理は相手を威嚇するような熱量と剥き出しとなった皮膚感覚がある。ゴーキーがそのことに関心を持ったことは少なからずあったといえよう。《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》がストロークによる形態に重きを置いているとすれば、《The Liver is the Cock's Comb》は色彩による形態のぶつかり合いに特化し主題化している。
もう少し「剥離」という問題を基にしながら、先に進んでみよう。マグリットの《The Key to the Fields(野の鍵)》(1936)では、窓ガラスが割れて床に落ちている状況が描かれているが、ガラスは透明ではなく奥に広がる風景の像を保存したまま破片となって落ちている。このいかにもマグリット的な奇妙な部屋の空間を、眼球の内部として捉えるという解釈は可能だ。つまりこの作品は、眼球の内側(=部屋の中)から風景を眺めるという、見ることを二重化した状況を描いているという仮定だ。しかし、この眼=ガラスは、破壊され像を正しく像を捉えることはできない。鑑賞者は、この風景を像として留めたままバラバラに分割されてしまったガラスと、窓の向こう側に見える風景を見比べることになる。
ところで、眼球の内部から見た風景という前提に立つならば、この作品は、エルンスト・マッハの左目の視覚体験をスケッチしたセルフポートレイトと結ぶことが可能になる。マッハのこの有名なスケッチは、単に左目から見えた風景を描いたものではなく、ある過剰さが含まれている。それは、彼が通常であれば視界に入るはずのないまつ毛や瞼の裏側までもスケッチしているからだ。このスケッチが奇妙な輪郭でフレーミングされているのは、自分の瞼の形なのである。
マグリットとマッハの作品の共通点を見ていこう。二つの作品は、どちらも目線の先に窓と外の風景が描かれている。窓の形は違うにしても、マッハの上瞼のカーブとマグリットが描いた円弧状の窓の枠のカーブは一致していると指摘することができる。また、窓の外の風景の類似などを含め、二つの作品には幾つかの共通点を感じさせる。マグリットは、視覚だけでなく、その前提となる眼球そのものに関心を向け、何度も作品化した作家であるから、マッハのこのスケッチを知り関心を持っていても不思議ではない。
対照的な部分を見ていこう。マグリットの作品は床にガラスが落ちているにもかかわらず、窮屈に感じるほどに床を狭い範囲しか描いていない。そのため部屋の奥行きを最小限にとどめている。一方、マッハのスケッチでは人間の視覚よりも極端なパース(20mmとかの広角レンズで見た風景のように)をつけて部屋の風景を描いている。この対照性を考えると、マッハは眼球から部屋の風景を見ているということを強調しているのに対して、マグリットは、マッハのスケッチからマッハの身体を消失させ、観客を眼球内部に呼び込こうもうとしたと推論を立てることはできなくはないのである。
また、《The Key to the Fields》のガラスの割れ方にも注目したい。なぜならこの割れ方は《The False Mirror(偽りの鏡)》(1928)にあるような瞳孔を見るものに意識させるからである。そして、《The Key to the Fields》のほうが、《The False Mirror》よりも、「偽りの鏡」をわかりやすいほどに体現している。ここで断定的な仮定をしてみるならば、《The False Mirror》を反対から見る構造、それが《The Key to the Fields》ということである。