2016年6月30日木曜日

アーティトトークにゲストとして参加しました。

第6回企画展 「仰向け画廊presents 2下映像祭」 が来週月曜日から2号館下にて開催されます。仰向け画廊史上、最も規模の大きい展示になります。
期間6/27~7/1 16:20~19:00

アーティストトーク
①6/30(木)16:30~ 鈴木雄大×橋本陽×二木詩織×石川卓磨(美術家、美術批評)×仰向け画廊 
②7/1(金)16:30~ 鐘ヶ江歓一×佐藤理保×森田貴之×箕輪亜希子(美術家)×仰向け画廊

2016年6月18日土曜日

アーティチョークの葉はフクロウである(前編)

アーシル・ゴーキー《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》

アーシル・ゴーキーは、作品のタイトルに詩的な広がりを持たせ、形態の見方に示唆を与えるのが得意な作家だ。彼の作品である《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》(1944)は、直訳すると「アーティチョークの葉はフクロウである」となる。アーティチョークの葉とフクロウという、一見属性として共通点がわからないようなものを結びつけるその手つきは、「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」に代表されるようなシュルレアルスム的性格を確認できる。ただ、フクロウとアーティチョークの写真を並べてみるとこの類似は初めの印象よりも明快であるのかもしれない。フクロウの羽根の重なりや形態と、アーティチョークの葉の重なりや形態の類似は写真を並べてみると明らかである。そして、このアーティチョークとフクロウの類似は、絵画に対する示唆を含んでいるように思う。このことについては後ほど再び言及することにしよう。
ただ、作品自体とタイトルを照らし合わせたとき、この指摘が作品としてどう反映されているのかは、それほど明快ではない。曲線や色彩の扱い方は有機的で、フクロウの色彩やアーティチョークの葉の曲線と無関係ではないように思えるが、明確な形で具象的なイメージを発見することはできない。


また、ゴーキーは《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》と同型のタイトルといえる《The Liver is the Cock's Comb》(1944)を同じ年に制作している。《The Liver is the Cock's Comb》を訳すと「肝臓は鶏冠である」となる。ここでも一見共通点を感じられない肝臓と鶏冠という単語がイコールで結ばれている。これも形態や色彩の類似を示唆させるをいえるだろうか。——鶏冠には、その形態と似ていることからケイトウ( Cocks Comb)という名前がつけらた花もある。しかし肝臓と鶏冠の結合は、アーティチョークとフクロウほどには、明確に理解できない。ゴーキーは、どのような状態の肝臓を見て、さらにどこを見て鶏冠と結びつけようと思ったのか。


一方で《The Liver is the Cock's Comb》は、《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》と比べ、作品とタイトルの関係性がより強く現れている。画面を特徴づける赤、赤茶、白は、具象的なイメージを喚起させる記号的な役割を担っている。ポイントとなる赤、その周りを取り囲むようにして存在する白、画面右側に描かれた二重の楕円の黄色と白、画面の中央の下部分に置かれている茶褐色の色彩は、鶏や卵、肝臓を容易に想起させる。《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》では、複数の鶏による騒がしい運動と、熱を持って引き起こされる炎症や内臓感覚が、色彩によって作り出される形態のリズムによって結び合わされているようだ。鶏の鶏冠を見ると、強い赤みや肌理は相手を威嚇するような熱量と剥き出しとなった皮膚感覚がある。ゴーキーがそのことに関心を持ったことは少なからずあったといえよう。《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》がストロークによる形態に重きを置いているとすれば、《The Liver is the Cock's Comb》は色彩による形態のぶつかり合いに特化し主題化している。

アーシル・ゴーキー《The Liver is the Cock's Comb》

ここから話をゴーキーの作品から離し、再びアーティチョークの葉とフクロウの羽根と絵画を巡る話に戻していく。
アーティチョークとフクロウは、複数の葉や羽根が、規則性をもって多層的に重なることで、植物・身体の表層を作り出している。この葉と羽根の重なりでできた表層を、セザンヌのタッチの重なりと結びつけて見ることは、それほど強引なことではないだろう。セザンヌは、一定の大きさと一定の方向で引かれる連続的なタッチの塊=単位。を配する/集積させることで絵画空間を特徴的に作り出している——ゴーキーがつけたタイトルから、セザンヌの作品に接続することは、唐突すぎるように思えるであろう。しかし、ゴーキーが、自らの方法を確立する仮定でオリジナリティーを脇に置いて、セザンヌの手法に強く影響されていた事実を考慮すればそれほど暴力的ではない。アーティチョークの葉とフクロウの羽根の結合に関心を向けたことは、ゴーキーがセザンヌから学んだ経験が多少なりとも含まれていると考えることはそれほど難しくないように私には思われる。

アーシル・ゴーキー《Pears, Peaches, and Pitcher》 

セザンヌの絵画空間におけるタッチの塊と、フクロウの羽根やアーティチョークの葉は、タッチの単位や規則性のほかに、重なりの間に生まれる隙間によって結びつけられる。この隙間は、葉/羽根/タッチが断片の集合であることを意味するものだ。葉/羽根は、それぞれ一枚一枚が独立した構造を持っており、さらにそれらは潜在的に全体から「抜け落ちる」性質を含んでいる。同様にセザンヌのタッチもこの独立した構造と「抜け落ちる」という感覚を有している。空間の統一を構成するタッチが、いつでも抜け落ちる、つまり欠落しうるという感覚を持つこと。セザンヌが作り出したタッチの独立性、タッチとタッチの間に生まれる隙間は、西洋絵画の伝統である堅牢な完成のモデル(統一性、全体性)から解放される新たな自由と存在の権利を生み出した。それは同時に、絵画が安定した絶対的な空間を喪失し、実存的な不安を抱えることにもなった。空間の剥離が引き起こされバラバラになってしまうという感覚。それは、《Riverbanks》(1904-05)のような作品を見てもわかるようにセザンヌの作品には常に含まれている。この潜在的な剥離の問題は、対象自体に含まれるのではなく、観察者の認識や身体の構造にあることを忘れてはならない。そして、この隙間(剥離の感覚)は、手法の問題であるとともに主体の問題でもあった。
タッチの剥離の感覚を、さらに直接的な問題に接続し展開してみよう。観ることの認識と眼における剥離というものがある。言葉として、あるいは物理的につなげるのであれば、網膜剥離というものがわかりやすい。それは眼球の内側の網膜が剥離することで引き起こされる障害だ。眼球の内部の網膜が剥離することと、画面の中に生まれる剥離の感覚。実際、印象派の画家たちは、白内障や黄班変性症など眼の病や負荷による症状を常に身近なものとして存在させていたわけだが、このことと絵画における認識の影響関係は少なからずあったということができるだろう。

 ポール・セザンヌ《Bathers》(部分)


ポール・セザンヌ《Riverbanks》
網膜剥離の図

もう少し「剥離」という問題を基にしながら、先に進んでみよう。マグリットの《The Key to the Fields(野の鍵)》(1936)では、窓ガラスが割れて床に落ちている状況が描かれているが、ガラスは透明ではなく奥に広がる風景の像を保存したまま破片となって落ちている。このいかにもマグリット的な奇妙な部屋の空間を、眼球の内部として捉えるという解釈は可能だ。つまりこの作品は、眼球の内側(=部屋の中)から風景を眺めるという、見ることを二重化した状況を描いているという仮定だ。しかし、この眼=ガラスは、破壊され像を正しく像を捉えることはできない。鑑賞者は、この風景を像として留めたままバラバラに分割されてしまったガラスと、窓の向こう側に見える風景を見比べることになる。
ところで、眼球の内部から見た風景という前提に立つならば、この作品は、エルンスト・マッハの左目の視覚体験をスケッチしたセルフポートレイトと結ぶことが可能になる。マッハのこの有名なスケッチは、単に左目から見えた風景を描いたものではなく、ある過剰さが含まれている。それは、彼が通常であれば視界に入るはずのないまつ毛や瞼の裏側までもスケッチしているからだ。このスケッチが奇妙な輪郭でフレーミングされているのは、自分の瞼の形なのである。
マグリットとマッハの作品の共通点を見ていこう。二つの作品は、どちらも目線の先に窓と外の風景が描かれている。窓の形は違うにしても、マッハの上瞼のカーブとマグリットが描いた円弧状の窓の枠のカーブは一致していると指摘することができる。また、窓の外の風景の類似などを含め、二つの作品には幾つかの共通点を感じさせる。マグリットは、視覚だけでなく、その前提となる眼球そのものに関心を向け、何度も作品化した作家であるから、マッハのこのスケッチを知り関心を持っていても不思議ではない。
対照的な部分を見ていこう。マグリットの作品は床にガラスが落ちているにもかかわらず、窮屈に感じるほどに床を狭い範囲しか描いていない。そのため部屋の奥行きを最小限にとどめている。一方、マッハのスケッチでは人間の視覚よりも極端なパース(20mmとかの広角レンズで見た風景のように)をつけて部屋の風景を描いている。この対照性を考えると、マッハは眼球から部屋の風景を見ているということを強調しているのに対して、マグリットは、マッハのスケッチからマッハの身体を消失させ、観客を眼球内部に呼び込こうもうとしたと推論を立てることはできなくはないのである。
 また、《The Key to the Fields》のガラスの割れ方にも注目したい。なぜならこの割れ方は《The False Mirror(偽りの鏡)》(1928)にあるような瞳孔を見るものに意識させるからである。そして、《The Key to the Fields》のほうが、《The False Mirror》よりも、「偽りの鏡」をわかりやすいほどに体現している。ここで断定的な仮定をしてみるならば、《The False Mirror》を反対から見る構造、それが《The Key to the Fields》ということである。

《The Key to the Fields》

1886年に描いたエルンスト・マッハのセルフポートレイト。

《The False Mirror》

私はここまで性急に話を進めすぎている。ただ、ブログの性格上、ここで論を精密に積み立てて書こうとは思っていない。このリズムを保ちながら、もう少し先に進もう、あるいは論の流れを戻そう。なぜなら、アーティチョークの葉とフクロウの羽根、あるいは剥離の話をまだ着地させてはいないからだ。(後編に続く)