2016年12月16日金曜日

MATTERS OF ACTの創刊イベントに参加します。

12月23日に東京のMilkyeastNo Collectiveが編集したMATTERS OF ACTというオープン・アクセス型ジャーナルの創刊イベントを、創刊に合わせて、第一号に関わった石川卓磨、高嶋晋一、アート・ユーザー・カンフェレンスの橋本聡と松井勝正、そしてNo Collectiveメンバーの中井悠による創刊イベントを、新milkyeastにて行ないます。中井さんの話を日本で聴けること自体がとても貴重なのでぜひご参加下さい!入場無料ですが、スペースがとても限られているので、info@alreadynotyet.orgまで、早めにお申し込みください。よろしくお願いします。

※定員に達しましたので、予約を締め切ります。どうもありがとうございました。

2016年12月11日日曜日

雑誌MATTERS OF ACTに作品が掲載されました。

12月23日に東京のMilkyeastNo Collectiveが編集したMATTERS OF ACTというオープン・アクセス型ジャーナルの創刊イベントを、第一号に関わった石川卓磨(Takuma Ishikawa)、高嶋晋一、アート・ユーザー・カンフェレンスの橋本聡(Satoshi Hashimto)と松井勝正とともに行ないます。雑誌の紹介と印刷版の販売とともに、掲載テキストや対談の一部の和訳配布、関連資料の展示、そして出演者によるトークなど。入場無料ですが、スペースがとても限られているので、info@alreadynotyet.orgまで、早めにお申し込みください。よろしくお願いします。
雑誌はこちらからすべて無料で閲覧・ダウンロード可能です:http://alreadynotyet.org/04.html 
MATTERS OF ACT|Issue A|220ページ(オールカラー)
図書館の本を並べ替えることで詩を書く匿名詩人によるコンセプチュアル・ポエトリー批判、「ロバート・スミッソンなしのロバート・スミッソン」が手がけた「サイト・スペシフィック・フィクション」の記録、ジャドソン・チャーチでの公演のためニューヨークのムーヴメント・リサーチに送られた一連の奇妙なプロポーザル、5歳児が算術を解くために苦しまぎれに編み出した図式たち、一年前に東京で開催された「無条件修復」展を部分的な資料から修復する試み、ラップトップのメディウム・スペシフィシティを熱烈に追い求めるコンピューター・ミュージックの異端、幼児が身体、言語と時間概念を獲得していく過程の観察ノート、石川卓磨の断片的フィクション「問うことを好めば即ち裕」の英訳、14歳の少年による思弁的実在論の読書感想文、など、行為と演技(ACT)の隙間に巣食う雑多な事柄と問題(MATTERS)を収集/探査するジャーナル。No Collectiveの編集のもとAlready Not Yet出版から毎年一冊のペースで刊行され、各号のPDF版はオープン・アクセス出版物として無料で閲覧・ダウンロード・再配布可能、印刷版はプリント・オン・デマンドとしてそのつど購入可能となります。

2016年12月6日火曜日

東京造形大学のCSLABのイベントにゲストとして参加しました。

(本日)24/7ISP vol.8 「ロールプレイング・ディスカッション」
2016.12.6(火) 17:00からCSLABにて
ゲスト 石川卓磨 
小林晴夫
ゲストと共に、それぞれ役割を決めてロールプレイしながら作品のディスカッションを行います。作品についてのディスカッションは実はチームプレイであり、そこにいる人たちのしっかりした役割や意識付けの中から幅の広い議論や深い作品理解が生まれてきます。しっかりとしたディスカッションを行うことによって、グループで作品について話すことの意味と方法、グループにコミットする責任などを再認識します。
———————————————
石川卓磨|1979年千葉県生まれ。美術作家、美術批評。武蔵野美術大学大学院造形研究科修了。近年の展覧会に「カメラのみぞ知る」(ユミコチバアソシエイツ viewing room shinjuku、東京、2015年)「イーサン・ハントのフラッシュバック」(タリオンギャラリー、東京、2014年)などがある。近年の評論に「ポストアプロプリエーションとしての写真」(『カメラのみぞ知る』[図録]、ユミコチバアソシエイツほか、2015年)、「戦争と銅版画――浜田知明の『戦争』画について」(『前夜/前線―クリティカル・アーカイヴ vol.2』、ユミコチバアソシエイツ、2014年)「生存のレオロジー――ゾエ・レオナードにおける生政治」(『引込線 2013』[図録]、引込線実行委員会、2013年)などがある。�小林 晴夫|blanClassディレクター・アーティスト1968年神奈川県生まれ。1992年Bゼミ(現代美術の学習システム)の運営に参加。2001年〜2004年の休業まで所長と してBゼミの運営をする。2009年blanClassを創立、芸術を発信する場として活動をはじめる。毎週土曜日のワンナイト イベント+公開インタビュー(Live Art)に加え、トークイベントなどの拡張計画を展開中。SNSなどをフル活用しながらその場で起こる「作品未満」の行為、発言、発信をオルタナティブに 摸索している。編著に「Bゼミ〈新しい表現の学習〉の歴史」(2005・BankART1929発行)がある。
http://cs-lab.zokei.ac.jp/event/247isp-vol-8-「ロールプレイング・ディスカッション」/

2016年11月9日水曜日

第9回恵比寿映像祭 「マルチプルな未来」 の情報が公開されました。

第9回恵比寿映像祭 「マルチプルな未来」 に参加します。
情報が公開されました。

【PDF】第9回恵比寿映像祭 「マルチプルな未来」 開催 平成29年2月10日(金)~2月26日(日)
https://www.rekibun.or.jp/press/pdf/161110_press_02.pdf


第9回恵比寿映像祭にフィオナ・タン、石川卓磨ら テーマは「マルチプルな未来」

http://www.art-annual.jp/news-exhibition/news/63257/

2016年10月18日火曜日

トークイベントに参加します。

トークイベントに参加します。
よろしくお願いいたします。

現在好評開催中!ミルク倉庫+ココナッツ「家計簿は火の車」
ミルク倉庫+ココナッツ×石川卓磨トークイベント開催
10月30日(日)17時〜19時
回転式展示棚が大きく設えられた作品が出展されている本展覧会のギャラリートークをはじめ、オルタナティブスペース「milkyeast」での活動もなど、ミルク倉庫とココナッツの制作活動に迫る、トークイベントです。
【トークイベント】
#031 ミルク倉庫+ ココナッツ イベント情報
ミルク倉庫+ココナツ× 石川卓摩 トークイベント[仮題]
日時:10 月30 日(日)17:00~19:00
会場:アーツ千代田 3331 3F 3331α
参加費:1,000 円/ ワンドリンク付
参加申込方法:メールでお申し込みください。
ws1(at)3331.jp ※ (at)を@に変えて送信してください

https://www.facebook.com/3331ArtsChiyoda/posts/1476286265738759

2016年10月1日土曜日

ミルク倉庫+ココナッツ「家計簿は火の車」展に際して文章を書きました。

ミルク倉庫+ココナッツ「家計簿は火の車」展に際して文章を書きました。

3331ギャラリー #031 ミルク倉庫+ココナッツ「家計簿は火の車」3331 ART FAIR recommended artists exhibition

http://www.3331.jp/schedule/003519.html

2016年9月19日月曜日

美術手帖にレビューを寄稿しました。

『美術手帖』2016年10月号に、展評「プロセスの地質学 吉田志穂 「測量|山」展」を寄稿しました。
http://www.bijutsu.press/books/2016/09/-201610.html

2016年9月13日火曜日

石川卓磨 × 上崎千「喉の奥深くからの声」

新宿にあるkrautraumにて、上崎千さんと一緒に、70年代アメリカを舞台にした『ゾディアック』や『大統領の陰謀』などを中心に映画の話をします。実話をベースした映画における模倣の能力と本人の問題。ここら辺を中心にしながら映画を語っていきます。現代美術には、映画をテーマにした作品も多く、それらの作品の言及にもつながっていく予定です。 9月22日は木曜日ですが秋分の日で祝日になっています。

 石川卓磨 × 上崎千「喉の奥深くからの声」 

このたびkrautraumでは、石川卓磨企画「喉の奥深くからの声」を開催いたします。
2016年9月22日(木•祝)16:00-19:30
開場時間:15:30-
料金:1,000円(1ドリンク付)

定員:15名 ※事前予約制 お名前、人数、ご連絡先のメールアドレスまたはお電話番号をご明記の上、info@krautraum.comまでご連絡ください。

2016年8月31日水曜日

トークイベントに参加します。

トークイベントに参加します。現代美術における「日常」というなかなか厄介な、けれども消えることのないテーマをめぐって、ア美研のみなさんと話してみたいと思います。
よろしくお願いします。

2016年9月3日(土)
『石川卓磨✕ア美研〈現在時点から、再び「日常」を問う〉
(企画:櫻井拓』19:00~21:00 
新宿眼科画廊地下スペース

石川卓磨×ア美研(西田博至+西中賢治)「現在時点から、再び「日常」を問う」トークセッション

2016年の現在において、「日常」を語るとすれば、そこには政治や社会の危機が必然的にたたみ込まれているでしょう。安定した社会構造の下にただ「日常」だけがあるあるいは、グローバリズムに対してローカルで私的なファンタジーを享受するという、90年代〜2000年代のある種ユートピア的な「日常」概念は、今やほぼ成立しなくなっています。 そのような状況において、芸術が「日常」を扱うことのラディカルさはどこにあるのでしょうか(ドキュメンタリーなどの、ドメスティックな文脈も話題になるかもしれません)。芸術と「日常」をめぐる問題を現在時点から再び問うことを始点として、山本作品について議論します。(企画:櫻井拓)
石川卓磨 http://bitecho.me/2016/04/08_879.html
日時:9月3日(土)19:00~21:00
入場料500円(1drink付)

2016年7月16日土曜日

この夏、ゼミを開講します



蜘蛛と箒企画
石川卓磨ゼミ
「芸術のこれからとここから|作品を作る/語るための方法と理論入門」
(全4回)


第1回|2016年8月20日[土]
小さい単位から考え始める|分析の時間

第2回|2016年8月21日[日]
環境を幾何学する|批評の時間

第3回|2016年8月27日[土]
フィクションを構築する|想像力の時間

第4回|2016年8月28日[日]
発明的な思考と方法|構想力の時間



“新しい世界観を獲得するための方法論や可能性を検討しながら、構想力を手にいれる”

 本ゼミでは、レクチャーとワークショップを基本とし、身近なところから抽象的な思考を引き出し、抽象的な思考から具体的なアイデアを形作っていく過程を解き明かします。さらに、絵画、彫刻、映画、写真、広告やプロダクトなど芸術・文化の諸ジャンルを横断しながら、広い視野を持って問いやアイデアを組み立てられるようになるプログラムになっています。

  • 美大・藝大生や卒業生で、作品を組み立てる思考法や語るための技術を得たい人
  • これまで専門的に美術を学んではないが、美術を始めたい、知りたい人
  • 美術史や芸術の創造的思考法を学んで、(美術以外の)制作や思考に活かしたい人

を対象にしてます。
 
ワークショップは、実技指導を目的にするものではなく、作品の見る・考える力を養うものですので、特別な技術や道具などは必要としません。



————芸術が持っているクリエイティブ思考の基礎を学ぶ。————



 ぼくが美術を始めた90年代後半よりも、現在美術と社会の距離感はずっと近くなり、より直接的な関係を持つようになりました。それはソーシャル・メディアを中心に加速している情報環境の変化、震災やグローバリズムによって顕在化した差別やテロリズムと不安定で不平等な経済状況、そして政治的力学の強硬化が大きな要因となっていると見ることができるでしょう。

 美術と社会の距離感の変化については、二つの特徴を指摘することができます。一つは、美術で養われてきた方法や実験が、意識的・無意識的、直接的・間接的に社会の中のさまざまな場所で拡散的に利用をされるようになったことです。そのため現代は誰もが美術的な活動や思考に関わる可能性を持った社会にあるといえます
 もう一つは、作品や活動の試みが、文化・芸術的な文脈や造形的な目的よりも、社会学やジャーナリズム、社会運動のようにダイレクトに社会、地域、共同体をテーマにして行われるようになったことです。

 これらは、ポスト・インターネット、ソーシャリー・エンゲイジド・アート、スペキュラティヴ・デザイン、芸術祭による地域振興などが生み出されている背景にもなっています。このような現在の状況は、作家の活動を美術界の閉鎖的な環境から解放し、社会全体の動きと芸術活動が連動するものにしました。
 しかしさまざまな形で拡散を強める美術(アート)の多様化は、必ずしも美術(アート)の考えが日本の社会に浸透したこととイコールであるわけではありません。美術(アート)はある部分で内側の思考を失い、それぞれの活動が分断され、空疎化しているところもある。さらに、美術(アート)は社会的な要請や状況に関わろうとするあまりにモノのへ思考やモノの権利が希薄化し、人間中心主義的な認識の外部を示せなくなってきています
 また、インターネットとリアルの区別がなくなり、シームレスな情報化社会の成立が指摘されるようになりましたが、(確かにインターネットの社会への浸透が小さな変容ではないのですが)、それに対する過大評価は楽観的な誤謬を孕みます。なぜなら、インターネットの中の現象や出来事は変化が早く、あらゆるものが一過性のものとして流されてしまうからです。そして、世界にはいまも地政学的な距離の問題が大きく存在しており、現実を動かす/認識しようするときに、インターネットが全面的に有効であるわけではないからです

 このゼミでは、長期的なスパンで物事を見る目を育て、どのような表現形式を採用するにせよ、美術という領域を外しても考えることのできる芸術的思考(自立的な思考)を得ることを目的とします。少し大げさにいうのではあれば、レオナルド・ダ・ヴィンチ、パブロ・ピカソ、マルセル・デュシャンのように、作品制作や観察を通して社会に通底する視座を獲得し、新しいヴィジョンを創造する構想力を手にいれるための準備に取り掛かりましょう!


開催詳細

講座名 :石川卓磨ゼミ「芸術のこれからとここから|作品を作る/語るための方法と理論入門」

開催場所:武蔵野プレイス
     「武蔵境駅」南口下車、徒歩1分


開催日時:第1回|2016年8月20日[土]19:00〜21:30
     講義室:
武蔵野プレイススペースE
     開場時間:18:40

     第2回|2016年8月21日[日]19:00〜21:30

     講義室:武蔵野プレイススペースC
     開場時間:18:40

     第3回|2016年8月27日[土]19:00〜21:30
     講義室:武蔵野プレイススペースE

     開場時間:18:40

     第4回|2016年8月28日[日]19:00〜21:30
     講義室:武蔵野プレイススペースE

     開場時間:18:40


講師  :石川卓磨(美術家/美術批評)

定員  :最大15名

受講料 :7500円(全4回)4回まとめて申し込む方優先。1回のみ受講の場合は2300円※募集は終了しました。


申し込み・お問い合わせ先

aslspbank@gmail.com

※申し込み時にはお名前/メールアドレスを明記下さい。 
上記のメールアドレス宛にお申込みください。その後、振込先や事前確認アンケートなど詳細のメールを送信いたします。※事前確認アンケートを見て講義内容を調整します。
※ご参加される方それぞれが各自のお名前で個別にお申込み下さい。
※受講資格はとくにありません。
※電話による申し込み・お問い合わせは受付けておりません。


2016年7月3日日曜日

なぜ三宅洋平は選挙演説でマラドーナを歌ったのか。

僕が三宅洋平を支持するのは、大きな前提として、山本太郎への信頼がある。そして三宅が言うように、山本を国会で一人で戦わせるのは、あまりにももったいないという考えがある。
もう一つは、三宅には他の候補者には見られない方法論があり、彼は、亀井静香的にいえば、(選挙に勝ち国会で戦うためには)「まさに身を捨てることを厭(いと)わない政治家」[註1](亀井は志位和夫をこのように表現した)であるということだ。
彼は前回の選挙で、17万票を超える得票数を集めたにもかかわらずが負けた。無所属である彼は大きな政党よりも選挙においては明らかに不利である。同じことを二回繰り返したら受かるというほど、三宅は能天気な人間ではないだろう。前回とは違う確実に勝てる戦略を立てられなければ、音楽家にとって様々なリスクを孕む選挙にもう一度出ることはしないだろう。
保守系の選挙分析には三宅をこのように分析している。

“共産党同様、政権与党の不満の受け皿となり、自民、民進の2議席目を奪い去るのではないか。
所謂、売国議員が当選した際に、保守層は「○○県の民度は低い」という事を叫ぶ。
先の山本太郎議員が当選した時も同様、「東京都民の民度は低い!」とネット上で度々言われた。
しかし、愛国議員当選のためにできる事~無党派・無関心層の投票の呼びかけ~にも書いた通り、ネットでのネガティブキャンペーン以上にリアルでの無党派層の呼びかけが重要だ。
三宅洋平候補を当選させたくないと保守層は思うなら、一日でも早く身近な人達に投票を呼び掛ける事が最善である。”[註2]


この分析は正しい。ただし補足が必要である。政権与党の不満があるのは実は、自民党、公明党支持者の中にもいるということである。では、この層が共産党や社民党に入れるかといえば入れないだろう。そしておそらくそういう人たちにとって、自民党と同じか、それ以上に不審を抱いている民進党に入れる人も多くはないだろう。
三宅はこの層を今回積極的にターゲットにしているということである。三宅が保守/リベラルの二元論を退けていることにも注目すべきだ。そのうえで、その二元論を、無党派層に啓蒙することもしない。むしろ別の枠組みを提示する。これは経済的な枠組みともいるだろう。
無党派層に対するアクションは、シールズを中心にしてファッションとコラボしながら野党も積極的に推し進めている。これは素晴らしいことだと僕は思っている。しかし、あのイメージ戦略だけで無党派層を十分に動かせるだろうか?
これまで選挙に行かなかったが行く可能性のある潜在的な層を、シールズなどのやり方で全てフォローできるだろうか。
この問題において、わかりやすくするために男性アイドルグループ例にしてみよう。
これまで男性アイドルは、ジャニーズだけが一人勝ちであった。そして、他から出てくるアイドルグループはことごとくジャニーズの前に潰れていった。そのなかで、アイドル枠で明確な住み分けを行った(色黒、マッチョ、ヤンキー系など)エグザイルは、潰されることなく規模を拡大することに成功したのである。この例に反感を覚えるかもしれないが、アナロジーとして抽象化して考えて欲しい。
シールズをジャニーズに例えるならば、三宅はエグザイルなのだ。
三宅のイノベイティブな姿勢が、民進党の候補者にあるだろうか。
過剰とも言えるはっきりした態度、熱狂とも言える煽りが、(ある意味で)悪名高き創価の選挙作戦を取り込む方法が野党にあるだろうか。
イノベイティブなものへのアクセスは二つのいいことがある。一つは、与党の考えに対する 否定以外のポジティブな提案を作ることができる。もう一つは、選挙に興味がない人々に関心を持たせることができるということである。
それをカルトというのは早計なのだ。イノベイティブなことを行おうとしている人たちは、今できなくても新しいことができると思って、それで人と惹きつけるというのは前提だからだ。
世界を変革させるためには、技術革新などを行うためには、未来を想像する構想力と、その未来に対する圧倒的な集中力が必要だ。自分が考える未来が本当にできるかできないかを迷ってる人に発明もイノベーションもできないのは大前提だ。それがトンデモであるなら、意識の高い企業もすべてトンデモとなってしまう。
誰もが信じられるわけではないのはわかる。ただ技術革新は、支持が集まる集まらない、思いだけで成功はしない。憲法改正とは違う。それが可能になるのは、条件を満たす具体的な技術と環境を作くれて初めてできるものだ。だから、できないものはできないので、それ自体に危険性はないので恐れることはない。
これはスポンサーとして企業を、あるいはクリエーターを味方につけられる可能性もあるかもしれない。
野党がもし与党に負けたとする。そのとき、野党支持者はこういうかもしれない。というか今まで言ってきたことだ。今回勝てないことは、想定内だった。だから気持ちで負けてはダメだ。選挙に不正があったとか陰謀論も言うなと。確かにそれは正論かもしれない。しかし心のどこかで負けを知っていると言ってしまってはダメだというところもあるのではないか。
ここでもう一度亀井の言葉を引用するなら「なんでおまえらは行儀の悪いことをいやがる」なという態度、三宅はそれを貫いている。
三宅がマラドーナの曲を歌うのは、まさにその態度である。
彼は神の手を信じている。自民党はいくらでも嘘をつき、勝ってきたではないか。公明党は学会員を組織して(一定の枠内であれ)必勝の戦術をとってきたではないか。それに負け続けてきたことを考えなければいけない。少なくとも民主党が与党をとって、野田に帰結してしまったことを知っている国民をもう一度動かすにはどうすればいいのか。
この三宅の考えを危険視するのは簡単である。しかし、前回の都知事選を思い出して欲しい。
宇都宮健二と票が割れるなど、強い批判を受け、さらに負けた細川護熙とは違い、三宅は野党と異なる方針をうち立ててるということを考えて欲しい。
山本太郎が、彼を擁護するのも、そこの部分を信じているからだろう。僕が思うに、三宅はギリギリなことをいっても、一線を越えてない。そして彼はどんどん民進党とは違う態度を取っている。これについて恐れる必要はない。なぜなら、横に山本太郎がいるから。もう一つは、三宅本人が言っているように、もう野党/与党を信じている人は、彼に票を入れない(彼はそこから票を取ろうとは思ってない)。そして、もちろん野党支持層から票を取らないとは言わないが、彼はそれ以上におそらく与党支持者の中の不満枠と、野党になかなか入れないであろう無党派層(潜在的な支持層)から、票を多く取るだろう。
だから、私たち(野党支持者)が考えなければいけないのは、野党と三宅ではなく、与党と三宅、日本会議や経団連みたいな保守枠と三宅だということを考えるべきだ。で、それが危ういと思っている人は、三宅に入れる必要はないし、恐れる必要もそれほどない。なぜなら野党支持者は、僕のようなことを考えないかぎり三宅を擁護できないのだから。

註1:http://www.asyura2.com/16/senkyo207/msg/773.html
註2:http://www.houan-yes-no.com/senkyo/sangiin2016/toukyousenkyokujousei.html

2016年6月30日木曜日

アーティトトークにゲストとして参加しました。

第6回企画展 「仰向け画廊presents 2下映像祭」 が来週月曜日から2号館下にて開催されます。仰向け画廊史上、最も規模の大きい展示になります。
期間6/27~7/1 16:20~19:00

アーティストトーク
①6/30(木)16:30~ 鈴木雄大×橋本陽×二木詩織×石川卓磨(美術家、美術批評)×仰向け画廊 
②7/1(金)16:30~ 鐘ヶ江歓一×佐藤理保×森田貴之×箕輪亜希子(美術家)×仰向け画廊

2016年6月18日土曜日

アーティチョークの葉はフクロウである(前編)

アーシル・ゴーキー《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》

アーシル・ゴーキーは、作品のタイトルに詩的な広がりを持たせ、形態の見方に示唆を与えるのが得意な作家だ。彼の作品である《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》(1944)は、直訳すると「アーティチョークの葉はフクロウである」となる。アーティチョークの葉とフクロウという、一見属性として共通点がわからないようなものを結びつけるその手つきは、「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」に代表されるようなシュルレアルスム的性格を確認できる。ただ、フクロウとアーティチョークの写真を並べてみるとこの類似は初めの印象よりも明快であるのかもしれない。フクロウの羽根の重なりや形態と、アーティチョークの葉の重なりや形態の類似は写真を並べてみると明らかである。そして、このアーティチョークとフクロウの類似は、絵画に対する示唆を含んでいるように思う。このことについては後ほど再び言及することにしよう。
ただ、作品自体とタイトルを照らし合わせたとき、この指摘が作品としてどう反映されているのかは、それほど明快ではない。曲線や色彩の扱い方は有機的で、フクロウの色彩やアーティチョークの葉の曲線と無関係ではないように思えるが、明確な形で具象的なイメージを発見することはできない。


また、ゴーキーは《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》と同型のタイトルといえる《The Liver is the Cock's Comb》(1944)を同じ年に制作している。《The Liver is the Cock's Comb》を訳すと「肝臓は鶏冠である」となる。ここでも一見共通点を感じられない肝臓と鶏冠という単語がイコールで結ばれている。これも形態や色彩の類似を示唆させるをいえるだろうか。——鶏冠には、その形態と似ていることからケイトウ( Cocks Comb)という名前がつけらた花もある。しかし肝臓と鶏冠の結合は、アーティチョークとフクロウほどには、明確に理解できない。ゴーキーは、どのような状態の肝臓を見て、さらにどこを見て鶏冠と結びつけようと思ったのか。


一方で《The Liver is the Cock's Comb》は、《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》と比べ、作品とタイトルの関係性がより強く現れている。画面を特徴づける赤、赤茶、白は、具象的なイメージを喚起させる記号的な役割を担っている。ポイントとなる赤、その周りを取り囲むようにして存在する白、画面右側に描かれた二重の楕円の黄色と白、画面の中央の下部分に置かれている茶褐色の色彩は、鶏や卵、肝臓を容易に想起させる。《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》では、複数の鶏による騒がしい運動と、熱を持って引き起こされる炎症や内臓感覚が、色彩によって作り出される形態のリズムによって結び合わされているようだ。鶏の鶏冠を見ると、強い赤みや肌理は相手を威嚇するような熱量と剥き出しとなった皮膚感覚がある。ゴーキーがそのことに関心を持ったことは少なからずあったといえよう。《The Leaf Of The Artichoke Is An Owl》がストロークによる形態に重きを置いているとすれば、《The Liver is the Cock's Comb》は色彩による形態のぶつかり合いに特化し主題化している。

アーシル・ゴーキー《The Liver is the Cock's Comb》

ここから話をゴーキーの作品から離し、再びアーティチョークの葉とフクロウの羽根と絵画を巡る話に戻していく。
アーティチョークとフクロウは、複数の葉や羽根が、規則性をもって多層的に重なることで、植物・身体の表層を作り出している。この葉と羽根の重なりでできた表層を、セザンヌのタッチの重なりと結びつけて見ることは、それほど強引なことではないだろう。セザンヌは、一定の大きさと一定の方向で引かれる連続的なタッチの塊=単位。を配する/集積させることで絵画空間を特徴的に作り出している——ゴーキーがつけたタイトルから、セザンヌの作品に接続することは、唐突すぎるように思えるであろう。しかし、ゴーキーが、自らの方法を確立する仮定でオリジナリティーを脇に置いて、セザンヌの手法に強く影響されていた事実を考慮すればそれほど暴力的ではない。アーティチョークの葉とフクロウの羽根の結合に関心を向けたことは、ゴーキーがセザンヌから学んだ経験が多少なりとも含まれていると考えることはそれほど難しくないように私には思われる。

アーシル・ゴーキー《Pears, Peaches, and Pitcher》 

セザンヌの絵画空間におけるタッチの塊と、フクロウの羽根やアーティチョークの葉は、タッチの単位や規則性のほかに、重なりの間に生まれる隙間によって結びつけられる。この隙間は、葉/羽根/タッチが断片の集合であることを意味するものだ。葉/羽根は、それぞれ一枚一枚が独立した構造を持っており、さらにそれらは潜在的に全体から「抜け落ちる」性質を含んでいる。同様にセザンヌのタッチもこの独立した構造と「抜け落ちる」という感覚を有している。空間の統一を構成するタッチが、いつでも抜け落ちる、つまり欠落しうるという感覚を持つこと。セザンヌが作り出したタッチの独立性、タッチとタッチの間に生まれる隙間は、西洋絵画の伝統である堅牢な完成のモデル(統一性、全体性)から解放される新たな自由と存在の権利を生み出した。それは同時に、絵画が安定した絶対的な空間を喪失し、実存的な不安を抱えることにもなった。空間の剥離が引き起こされバラバラになってしまうという感覚。それは、《Riverbanks》(1904-05)のような作品を見てもわかるようにセザンヌの作品には常に含まれている。この潜在的な剥離の問題は、対象自体に含まれるのではなく、観察者の認識や身体の構造にあることを忘れてはならない。そして、この隙間(剥離の感覚)は、手法の問題であるとともに主体の問題でもあった。
タッチの剥離の感覚を、さらに直接的な問題に接続し展開してみよう。観ることの認識と眼における剥離というものがある。言葉として、あるいは物理的につなげるのであれば、網膜剥離というものがわかりやすい。それは眼球の内側の網膜が剥離することで引き起こされる障害だ。眼球の内部の網膜が剥離することと、画面の中に生まれる剥離の感覚。実際、印象派の画家たちは、白内障や黄班変性症など眼の病や負荷による症状を常に身近なものとして存在させていたわけだが、このことと絵画における認識の影響関係は少なからずあったということができるだろう。

 ポール・セザンヌ《Bathers》(部分)


ポール・セザンヌ《Riverbanks》
網膜剥離の図

もう少し「剥離」という問題を基にしながら、先に進んでみよう。マグリットの《The Key to the Fields(野の鍵)》(1936)では、窓ガラスが割れて床に落ちている状況が描かれているが、ガラスは透明ではなく奥に広がる風景の像を保存したまま破片となって落ちている。このいかにもマグリット的な奇妙な部屋の空間を、眼球の内部として捉えるという解釈は可能だ。つまりこの作品は、眼球の内側(=部屋の中)から風景を眺めるという、見ることを二重化した状況を描いているという仮定だ。しかし、この眼=ガラスは、破壊され像を正しく像を捉えることはできない。鑑賞者は、この風景を像として留めたままバラバラに分割されてしまったガラスと、窓の向こう側に見える風景を見比べることになる。
ところで、眼球の内部から見た風景という前提に立つならば、この作品は、エルンスト・マッハの左目の視覚体験をスケッチしたセルフポートレイトと結ぶことが可能になる。マッハのこの有名なスケッチは、単に左目から見えた風景を描いたものではなく、ある過剰さが含まれている。それは、彼が通常であれば視界に入るはずのないまつ毛や瞼の裏側までもスケッチしているからだ。このスケッチが奇妙な輪郭でフレーミングされているのは、自分の瞼の形なのである。
マグリットとマッハの作品の共通点を見ていこう。二つの作品は、どちらも目線の先に窓と外の風景が描かれている。窓の形は違うにしても、マッハの上瞼のカーブとマグリットが描いた円弧状の窓の枠のカーブは一致していると指摘することができる。また、窓の外の風景の類似などを含め、二つの作品には幾つかの共通点を感じさせる。マグリットは、視覚だけでなく、その前提となる眼球そのものに関心を向け、何度も作品化した作家であるから、マッハのこのスケッチを知り関心を持っていても不思議ではない。
対照的な部分を見ていこう。マグリットの作品は床にガラスが落ちているにもかかわらず、窮屈に感じるほどに床を狭い範囲しか描いていない。そのため部屋の奥行きを最小限にとどめている。一方、マッハのスケッチでは人間の視覚よりも極端なパース(20mmとかの広角レンズで見た風景のように)をつけて部屋の風景を描いている。この対照性を考えると、マッハは眼球から部屋の風景を見ているということを強調しているのに対して、マグリットは、マッハのスケッチからマッハの身体を消失させ、観客を眼球内部に呼び込こうもうとしたと推論を立てることはできなくはないのである。
 また、《The Key to the Fields》のガラスの割れ方にも注目したい。なぜならこの割れ方は《The False Mirror(偽りの鏡)》(1928)にあるような瞳孔を見るものに意識させるからである。そして、《The Key to the Fields》のほうが、《The False Mirror》よりも、「偽りの鏡」をわかりやすいほどに体現している。ここで断定的な仮定をしてみるならば、《The False Mirror》を反対から見る構造、それが《The Key to the Fields》ということである。

《The Key to the Fields》

1886年に描いたエルンスト・マッハのセルフポートレイト。

《The False Mirror》

私はここまで性急に話を進めすぎている。ただ、ブログの性格上、ここで論を精密に積み立てて書こうとは思っていない。このリズムを保ちながら、もう少し先に進もう、あるいは論の流れを戻そう。なぜなら、アーティチョークの葉とフクロウの羽根、あるいは剥離の話をまだ着地させてはいないからだ。(後編に続く)






2016年5月29日日曜日

「キセイノセイキのあとになにが起きるのか? その1」に参加しました。

会期最終日に、MOTアニュアル2016「キセイノセイキ」をめぐって話し合います。

参加者
飯山由貴(アーティスト)
石川卓磨(アーティスト)
遠藤麻衣(アーティスト)
奥村雄樹(アーティスト)
小泉明郎(アーティスト)
佐々木健(アーティスト)
菅原伸也(美術批評・理論)
杉田敦(美術批評)
高川和也(アーティスト)
橋本聡(アーティスト)
バーバラ・ダーリン(アーティスト)
福居伸宏(アーティスト)
藤井光(アーティスト)
眞島竜男(アーティスト)
ほか

日時:2016年5月29日(日) 18:30~21:30(出入り自由)
場所:木場公園
参加費:無料(予約不要)

2016年5月24日火曜日

美術手帖にレヴューが掲載されました。

美術手帖(2016年6月号)に僕が書いた「二つの暗室 ——漂流Ⅲ 安部公房へのオマージュ・写真とヴォイアリズム展」というレヴューが掲載されました。

2016年5月8日日曜日

山口正城《連結せざる構造による一群の横線》

図1 山口正 城《連結せざる構造による一群の横線》1941

山口正城(1903−1959年)は、バウハウス理論を研究し、抽象絵画とデザインを中心にした日本のモダニズムの領域で業績を残した作家である。ここでは彼の《連結せざる構造による一群の横線》(図1)を取り上げる。この作品で試みられていることは演習的な実験といえるだろう。単純ではあるが、方法を発見し自覚的に構築することは簡単ではない。このような積み重ねによってモダニズム芸術は作られていった。ここでの課題は、タイトルで示されているように、ある規則性を感じさせる機械な横線を用いながら、形の分割(連結せざる)と統合(一群)の拮抗の運動を生み出す試みである。
《連結せざる構造による一群の横線》は、横線によって作られた三つの形態が組み合わされている。三つの形態は線を交差させて接続されることはない。すべての線は、直接交差、接触することなく、線と線の間隔によって作り出されるまとまりによってつなぎとめられている。

図2

図2は、中心に引かれた横線の一群を抜いた状態のものである。二つの放射線状に引かれた横線の群が二つ組み合わされている。横線は放射線状になっているため横にした樽のような印象を持たせる。樽状のボリュームが現れる要因は、放射線状だけでなく左右の二つの形態の両端が円弧状になっていることも大きい。両端が円弧状になっていなければ二点透視法で描かれた塀のコーナーのように見えるが、円弧状になることで丸みを持つようになっている。また、円弧状であることは左右の形態の接続を強くしている。しかし、よく見ると二つの横線の群は、左右非対称で上下がズレて噛み合っておらず、一つの形態のまとまりを成していない。

図3

図3は、中心に引かれた横線を途中まで入れた図である。図2と比べると中心の線は、左右の形態の接続を強めている。また、図3を見ると、中心の横線の一番上の線が水平に引かれていることは、先述した左右の形態の上下のズレを修正するものとして重要性を持っていることがわかる。図1の完成図を見ても、中心に引かれている横線の一群が、左右のパーツをつなぐ働きをある程度していることは確認でき、目とはそのくらいいい加減だとも言える。ただ、ここで重要にことは図1と図3の違いを正確に見ることである。図3の状態までは左右の横線の群をつなぐように引かれるが、図1になると、そのあとは左側に大きくずれて接続の働きを無効にしているのだ。これは、作者が「連結せざる構造」に意識的でなければ起こり得ないような部分なのである。

図4


そのため、図3では樽型の形態と対応した横線のように見えていたが、図1では中心の形態は、樽型の形態から独立していると感じられるようになっている。中心の横線を抜き出した図4で示されるように、中心の形態自体も樽型の形態とは別の奥行きを持った形態なのだ。そのため図2と図4の二つの形態を重ねることは、空間の整合性をチグハグにするものであり、空間を打ち消しあうような拮抗が生まれている。鑑賞者は、慣習の認識によって部分と部分の連結しか弱いながらイリュージョンを作ろうとするが、部分と部分を確認してくと、矛盾を孕み挫折するような不完全な空間である。しかし本作は、この不完全さゆえに複数の空間の可能性を内包することに成功している。空間は単純な線のパターンによって形作られ、一見すると全体が一つの塊を形成するように見える。しかし、よく見ると立体としての整合性は退けられ、一義的には決定できない(だまし絵のようにははっきりと分割できない)複数の空間の認識が未分化な状態で成立しているのである。

2016年4月15日金曜日

キュウ・タケキ・マエダさんの課外講座があります。聞き手として参加します。

【告知】
武蔵野美術大学で、キュウ・タケキ・マエダさんの課外講座が4月15日(金)に行われます。彼はベルリン在住で、現在『六本木クロッシング2016展:僕の身体(からだ)、あなたの声』に出品し、ジェイ・チュンと共に世界各国で展覧会をしているアーティストです。
日本ではオブリストのインタビュー集を翻訳した仕事でも知られています。武蔵美の学生には油絵学科に限らず多くの学生に聞いてもらいたい講演です。また、学外の人でも興味のある方には是非おすすめします。
袴田京太朗先生の企画で、僕もマエダさんの聞き手として参加します。
場所:武蔵野美術大学2号館201教室
日時:4月15日金18:00〜


2016年4月11日月曜日

2016年4月8日金曜日

美術手帖4月号ART NAVIにインタビュー掲載

美術手帖4月号ART NAVIに、明日から個展を開催(4/2~5/1)の石川卓磨のインタビューが掲載されました。

http://bitecho.me/2016/04/08_879.html …

2016年4月1日金曜日

タリオンギャラリーにて石川卓磨個展「教えと伝わり」を開催いたします。

明日から始まります。オープニングレセプション18:00-20:00であります。よろしくお願いします。 石川卓磨『教えと伝わり|Lessons and Conveyance』TALION GALLERY 4月2日(土)−5月1日(日)

2016年3月31日木曜日

2016年3月20日日曜日

インタビューの掲載

批評誌ウェブ版『ART CRITIQUE』で、2012年のぼくのインタビューを読むことができるようになりました。
[インタビュー]石川卓磨|写実のたたかい――シャルダン・スーラ・黒
https://note.mu/art_critique/n/ncb0221e165ba

2016年3月4日金曜日

怒涛のっ!あおもりアート商店街10年検証事業

展覧会とシンポジウムに参加します。

<ウインドー展示>
会 期: 3月11日(金)~3月20日(日)(予定)
場 所: ポレスター新町プレミアムステージ(青森市新町2丁目6)
    1階の賃貸商業施設の歩道に面したウインドー約27m
時間: 11:00-18:00 (アーケードのある歩道からの鑑賞となります)
展示予定作家:中崎透 / 藤井光 / 石川卓磨 / 風間天心(真悟)/ 渡辺泰子
展示予定作家のブロフィールはこちらから。


<シンポジウム>
日時: 3月12日(土)17:00-20:00
場所: 新町キューブ1階“グランパレ”(新町2丁目6−25)
入場無料
パネリスト:嶋中克之/石川卓磨/佐藤広野/住中浩史/中崎透/渡辺泰子、他

2016年2月27日土曜日

青山熊治《高原》(1926)における様式の折衷

青山熊治《高原》(1926)についての覚書。
《高原》の前景は、象徴主義的な雰囲気を持たせながら古典的な写実性(シャヴァンヌ的)を生かしているが、中景の二人の裸婦の部分からは、セザンヌ的画面になっている。二人の裸婦を中心にして、トリミングしてみると、セザンヌの影響がはっきりとわかる。
前景の背中を見せている女性が居なければ、中景のディフォルメや省略を含んだ表現、そして画面の中心を占める空虚な空間は、前景との分離を強めてしまっただろう。裸婦の背中を描きながら、背面としてではなくこれが正面であるという説得力を持たせるというセザンヌ的な課題を、作者はちゃんと理解し挑戦しているだろう。



青山熊治《高原》(1926)



《高原》部分


ポール・セザンヌ 《大水浴図》(1894-1905頃)




ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《諸芸術とミューズたちの集う聖なる森》1884-89年頃

2016年2月19日金曜日

リチャード・セラの鉛のロール

リチャード・セラの初期の仕事として位置づけられている作品には《Thirty-five Feet of Lead Rolled Up》(1968)や、《Double Roll》(1968)など、鉛のロールが多く作られている。鉛のロールはそれぞれ、鉛の板の厚さやサイズ、一方向から巻いたものと両端から巻いたもの、中心の空洞部分を広さ、層に隙間ができないようにきつく巻いたものと隙間ができるようにゆるく巻いたものなど、個別的な試みのヴィリエーションを見ることができる。
私たちに鉛の板を巻くという経験がないとしても、布や紙、シートや絨毯などを巻いた経験から、セラの行為がどのようなものであるかをある程度想像することができるはずだ。例えば、サイズが大きい絨毯を巻くときに気がつくことは、軸をずらさずに真っ直ぐ巻いていくことの難しさである。真っ直ぐに巻き込んでいくことができないと、層の重なりがズレていき、側面が突き出たり、凹んだりしてしまう。絨毯を真っ直ぐ巻き込んでいくためには、巻くときにかける左右の力のバランスとタイミンを調整していかなければならない。左右の力のかかり方がずれると、巻いていく方向の軸が右か左に逸れてずれてしまう。そのため人は、絨毯をロールにするときは、絨毯と身体のシンメトリーを意識することになる。このことはセラの鉛のロールに置き換え可能である。《Thirty-five Feet of Lead Rolled Up》は、文字通り35フィート(約10メートル)の幅を、身体と鉛の板の中心の関係を調整しながら巻いた持続的な時間の結果なのである。この鉛と身体に現れるシンメトリーの関係は、垂直/水平の違いはあるにせよ、バーネット・ニューマンがキャンバスの中心に引いた垂直線(ジップ)と関係を持っている。《Onement Ⅰ》は、画面にシンメトリーを与えるジップが描かれた代表的な作品である。ニューマンにとってジップとは、画面を半分に分割するものではなく、絵画にシンメトリーを与え、身体のシンメトリーと呼応し合うような運動を作り出すものだった。ジップは、観者自身がどこから絵画を見るのかという意識の働きかけ(リフレクション)を生み出す。ニューマンは、これを「場所の感覚」と呼んだ。註1

バーネット・ニューマン《Onement Ⅰ》 1948. 

鉛のロールは円筒の形態だが、もともとは板状であり長方形である。それを巻き込む過程は、先述したように、板と身体のシンメトリーを合わせていくことであり、ニューマンのジップと重なり合う。しかし、《Onement Ⅰ》におけるジップが、観者に「場所の感覚」を与えるのに対して、セラの鉛のロールは、シンメトリーの現前性を観者に与えることはない。鉛のロールは、作者と観者の感覚の差異(遅れ)を現前している。「場所の感覚」を経験するのは、作家本人のみであり、観者は痕跡としての鉛のロールを通して、間接的にシンメトリーや「場所の感覚」を想像しながら見出すのである。鉛のロールには、イヴ=アラン・ボアが指摘している(ジップによって作られる)側向性註2——視覚における横への拡がり——のような外への拡がりはなく、ロールは形成された力と時間の働きを内在させて、物の内側へと意識を向けさせるエネルゲイアような性質を持っている。
また、鉛のロールにおける中心軸は、ニューマンのように描かれることで生み出されるものではなく、重力のように示される物理的な法則である。そして、鉛のロールを真っ直ぐ巻くためには、それに従うほかない。ここで改めて考えてみる必要があるのは、人間の身体は本当にシンメトリーなのだろうかということである。もちろん、そうではない。それは、人間が無意識的に絨毯を巻くと失敗をすることと無関係ではないだろう。エルンスト・マッハは、この身体のアシンメトリーについてこう指摘している。
私は或る老将校から、真暗闇のなかを、または吹雪をついて進んでいる軍隊は、外部によりどころがない場合には、真直ぐ行進しているつもりでも、ほぼ大きな円を描いて動いており、その結果、出発点に帰って来かねないという話を聞いたことがある。トルストイの「主人と召使い」のなかにも同じような話が出て来る。この現象は運動がほんの僅か非対称的であるということによってのみうまく理解できる。それは、円筒に近い形の円錐を転がすと、大きな円を描いて廻るのと似ている。註3
マッハがあげている例で示唆的なのは、道を視認ができない状況が、身体の歪みを露呈させるということだ。絨毯を巻く際に、左右の歪みが出てしまうこともまた、目を開いているにもかかわらず、沿うべき道=中心軸を視認することが難しいである。
ニューマンが観念的にだけシンメトリーを捉えていたわけではないのは明らかである。けれども、理念と身体が相応するものとして考えたはずである。一方セラは、一貫して物質や身体が持っている形態の歪みに対して触発し続けてきた。身体が鉛の板に方向を与え、一方で鉛の板が身体に方向を与える。鉛のロールは、物質と身体がお互いを矯正しあうことで生まれたものである。
 鉛は絨毯とちがい、一度変形させられるともう一度力を加えないかぎり、元の形に戻らない。そのため、鉛の板は、行為のひとつひとつで生じた圧力を痕跡として定着させる。《Double Roll》に見られる層の歪みは、過程で生まれた物質と身体の衝突の痕跡であり、映画のフィルムのように出来事や時間を記録するメディアとしてみることも可能なのである。



註1)「ニューマンは自作のなかの垂直要素をジップ(zip)と呼んだが、ジップとは目盛である。観者が表面の横幅を直感的に計測するための物差なのだ。ジップはまた指令でもある。ここに、ジップの正面に立て、そうすれば自分がどこにいるのかが正確にわかるはずだ。なぜならここが絵画の中心であり、と同時にあなたの視野の中心なのだから。ニューマンは、自分が成し遂げたいのは見るものに「場所の感覚」を与えることだと常々語っていた。」
イヴ ‐ アラン・ボワ「「ここにわたしがいる」──バーネット・ニューマンの絵画における側向性」前田希世子編『バーネット・ニューマン』近藤学訳(川村記念美術館、2010年、59頁)
註2)同、60頁
註3)エルンスト・マッハ『感覚の分析』(須藤吾之助・廣松 渉訳、法制大学出版局、1971年、95頁)

Richard Serra Early Work
http://www.davidzwirner.com/exhibition/richard-serra-early-work-6/page/9/?view=works-single

2016年2月3日水曜日

【告知】メディア芸術祭青森展&AIRS企画vol.5

【告知】メディア芸術祭青森展&AIRS企画vol.5
●石川卓磨展 真空をふくむ
2月6日〜3月13日
場所:ACAC AVルーム時間:10:00-18:00
●石川卓磨×山本良浩展 responsive/responsible
2月7日〜3月13日(予定)
場所:テコギャラリー
「石川卓磨展|真空をふくむ」では、映像作品《セリフの練習》(2014)、《国境を越える》(2015)、新作《天使について》(2016)を上映します。
「石川卓磨×山本良浩展 responsive/responsible」映像作家佐々木友輔と共同で原案を作成し石川が監督した短編映画《6 seconds of 2028》と、写真作品《Documentary/Film》を発表します。
テコギャラリーで二人展をする山本良浩さんは、第15回文化庁メディア芸術祭のアート部門にて大賞を受賞されていて、四谷アート・ステゥディウムのトークセッションで一緒に参加して以来交流がありますが、久しぶりにお会いするので楽しみ。2月7日に司会を中崎透さんにお願いし二人でトークします。

2016年1月22日金曜日

トークイベントに参加します。

明日、ユミコチバアソシエイツにて、山本渉 個展 「しみ そめ しわ」合わせてトークイベントを開催いたします。僕はゲストとして参加します。是非ともご参加ください。事前申込制になっています。よろしくお願いいたします。 

■トークイベント
日 時:2016年1月23日(土)17:00-18:00 ゲスト:石川 卓磨(美術作家、美術批評)
会 場:Yumiko Chiba Associates viewing room shinjuku
※事前申込制 参加費:無料
※詳しくはプレスリリースをご覧下さい


http://www.ycassociates.co.jp/jp/information/wataru-yamamoto_yca2016/

2016年1月4日月曜日

ウィンスロー・ホーマーの《The Coming Storm》について

Winslow Homer, The Coming Storm, 1901

ウィンスロー・ホーマーの《The Coming Storm》という水彩のスケッチは、タイトルにある通り、今まさに嵐が水平線の向こう側からやってきている状況が描かれている。つまり、まだ嵐はこちら側に完全には訪れてはいない。では嵐の内と外を区別する境界線は一体どこに設けられるのか。

 ここに描かれている影の濃い厚い雲は、画面3分の2程度を覆っている。しかし、残りの部分はまだ晴天を保っている。雲は画家のいる場所まで覆っているが、雨はまだ遠景のほうでしか降っていない。とはいえ、手前に描かれている木の表情を見れば、すでに画家の場所も強風にあおられていることがわかる。雨は雲のなかから降ってくる——この雲自体の影と、海面にに映り込んだ雲の影は、嵐の到来として私たちの意識に強く働きかける。晴れている日にも強風は起こるように、風は雲の下だけで生起するわけではない。大気の流れは画面全体に関わっている。また、奥に描かれている画面左端の木は、手前の木となびき方が逆である。つまり手前と奥では逆向きの風(手前は左から右へ、奥は右から左へ)が吹いており、ここでの風の流れは一様ではないことが示されている。

 水平線までほとんど障害物もなく見渡せる海の風景のなかで、天候は急激に動いており、風の流れや大気の変化が、さまざまな境界線を作り出しているのだ。ホーマーはターナーのような荒波を全く描いていない。この水面の穏やかさと空の動的な表情は対照的でなものとしてある。波の表情の省略と平坦なパノラマの風景は、目に見えない空気の流れや気候の境界性を前景化させる。嵐は速い速度でこちらにやってきている。そのことを示すことで、鑑賞者は、画家と同じ位置に立ち、ヴァーチャルであっても自らの身体感覚に訴えかける、その意味でアフォーダンス的な作品である。