2016年7月3日日曜日

なぜ三宅洋平は選挙演説でマラドーナを歌ったのか。

僕が三宅洋平を支持するのは、大きな前提として、山本太郎への信頼がある。そして三宅が言うように、山本を国会で一人で戦わせるのは、あまりにももったいないという考えがある。
もう一つは、三宅には他の候補者には見られない方法論があり、彼は、亀井静香的にいえば、(選挙に勝ち国会で戦うためには)「まさに身を捨てることを厭(いと)わない政治家」[註1](亀井は志位和夫をこのように表現した)であるということだ。
彼は前回の選挙で、17万票を超える得票数を集めたにもかかわらずが負けた。無所属である彼は大きな政党よりも選挙においては明らかに不利である。同じことを二回繰り返したら受かるというほど、三宅は能天気な人間ではないだろう。前回とは違う確実に勝てる戦略を立てられなければ、音楽家にとって様々なリスクを孕む選挙にもう一度出ることはしないだろう。
保守系の選挙分析には三宅をこのように分析している。

“共産党同様、政権与党の不満の受け皿となり、自民、民進の2議席目を奪い去るのではないか。
所謂、売国議員が当選した際に、保守層は「○○県の民度は低い」という事を叫ぶ。
先の山本太郎議員が当選した時も同様、「東京都民の民度は低い!」とネット上で度々言われた。
しかし、愛国議員当選のためにできる事~無党派・無関心層の投票の呼びかけ~にも書いた通り、ネットでのネガティブキャンペーン以上にリアルでの無党派層の呼びかけが重要だ。
三宅洋平候補を当選させたくないと保守層は思うなら、一日でも早く身近な人達に投票を呼び掛ける事が最善である。”[註2]


この分析は正しい。ただし補足が必要である。政権与党の不満があるのは実は、自民党、公明党支持者の中にもいるということである。では、この層が共産党や社民党に入れるかといえば入れないだろう。そしておそらくそういう人たちにとって、自民党と同じか、それ以上に不審を抱いている民進党に入れる人も多くはないだろう。
三宅はこの層を今回積極的にターゲットにしているということである。三宅が保守/リベラルの二元論を退けていることにも注目すべきだ。そのうえで、その二元論を、無党派層に啓蒙することもしない。むしろ別の枠組みを提示する。これは経済的な枠組みともいるだろう。
無党派層に対するアクションは、シールズを中心にしてファッションとコラボしながら野党も積極的に推し進めている。これは素晴らしいことだと僕は思っている。しかし、あのイメージ戦略だけで無党派層を十分に動かせるだろうか?
これまで選挙に行かなかったが行く可能性のある潜在的な層を、シールズなどのやり方で全てフォローできるだろうか。
この問題において、わかりやすくするために男性アイドルグループ例にしてみよう。
これまで男性アイドルは、ジャニーズだけが一人勝ちであった。そして、他から出てくるアイドルグループはことごとくジャニーズの前に潰れていった。そのなかで、アイドル枠で明確な住み分けを行った(色黒、マッチョ、ヤンキー系など)エグザイルは、潰されることなく規模を拡大することに成功したのである。この例に反感を覚えるかもしれないが、アナロジーとして抽象化して考えて欲しい。
シールズをジャニーズに例えるならば、三宅はエグザイルなのだ。
三宅のイノベイティブな姿勢が、民進党の候補者にあるだろうか。
過剰とも言えるはっきりした態度、熱狂とも言える煽りが、(ある意味で)悪名高き創価の選挙作戦を取り込む方法が野党にあるだろうか。
イノベイティブなものへのアクセスは二つのいいことがある。一つは、与党の考えに対する 否定以外のポジティブな提案を作ることができる。もう一つは、選挙に興味がない人々に関心を持たせることができるということである。
それをカルトというのは早計なのだ。イノベイティブなことを行おうとしている人たちは、今できなくても新しいことができると思って、それで人と惹きつけるというのは前提だからだ。
世界を変革させるためには、技術革新などを行うためには、未来を想像する構想力と、その未来に対する圧倒的な集中力が必要だ。自分が考える未来が本当にできるかできないかを迷ってる人に発明もイノベーションもできないのは大前提だ。それがトンデモであるなら、意識の高い企業もすべてトンデモとなってしまう。
誰もが信じられるわけではないのはわかる。ただ技術革新は、支持が集まる集まらない、思いだけで成功はしない。憲法改正とは違う。それが可能になるのは、条件を満たす具体的な技術と環境を作くれて初めてできるものだ。だから、できないものはできないので、それ自体に危険性はないので恐れることはない。
これはスポンサーとして企業を、あるいはクリエーターを味方につけられる可能性もあるかもしれない。
野党がもし与党に負けたとする。そのとき、野党支持者はこういうかもしれない。というか今まで言ってきたことだ。今回勝てないことは、想定内だった。だから気持ちで負けてはダメだ。選挙に不正があったとか陰謀論も言うなと。確かにそれは正論かもしれない。しかし心のどこかで負けを知っていると言ってしまってはダメだというところもあるのではないか。
ここでもう一度亀井の言葉を引用するなら「なんでおまえらは行儀の悪いことをいやがる」なという態度、三宅はそれを貫いている。
三宅がマラドーナの曲を歌うのは、まさにその態度である。
彼は神の手を信じている。自民党はいくらでも嘘をつき、勝ってきたではないか。公明党は学会員を組織して(一定の枠内であれ)必勝の戦術をとってきたではないか。それに負け続けてきたことを考えなければいけない。少なくとも民主党が与党をとって、野田に帰結してしまったことを知っている国民をもう一度動かすにはどうすればいいのか。
この三宅の考えを危険視するのは簡単である。しかし、前回の都知事選を思い出して欲しい。
宇都宮健二と票が割れるなど、強い批判を受け、さらに負けた細川護熙とは違い、三宅は野党と異なる方針をうち立ててるということを考えて欲しい。
山本太郎が、彼を擁護するのも、そこの部分を信じているからだろう。僕が思うに、三宅はギリギリなことをいっても、一線を越えてない。そして彼はどんどん民進党とは違う態度を取っている。これについて恐れる必要はない。なぜなら、横に山本太郎がいるから。もう一つは、三宅本人が言っているように、もう野党/与党を信じている人は、彼に票を入れない(彼はそこから票を取ろうとは思ってない)。そして、もちろん野党支持層から票を取らないとは言わないが、彼はそれ以上におそらく与党支持者の中の不満枠と、野党になかなか入れないであろう無党派層(潜在的な支持層)から、票を多く取るだろう。
だから、私たち(野党支持者)が考えなければいけないのは、野党と三宅ではなく、与党と三宅、日本会議や経団連みたいな保守枠と三宅だということを考えるべきだ。で、それが危ういと思っている人は、三宅に入れる必要はないし、恐れる必要もそれほどない。なぜなら野党支持者は、僕のようなことを考えないかぎり三宅を擁護できないのだから。

註1:http://www.asyura2.com/16/senkyo207/msg/773.html
註2:http://www.houan-yes-no.com/senkyo/sangiin2016/toukyousenkyokujousei.html