2012年6月20日水曜日

【雑記】支持者は消えず、相対的には増えている。

※ひどい文章なので少し訂正しました。

作品がなければものを考えられないのではいけない。ここでは作品分析以外のやり方でも文章が書いていきたい。今回は特別何か新しいことを考えられているわけではないが、自分なりに書いてみようと思う。

文章は、今やネットという公の場で好きなだけ書くこと、発表することが許されているし、いつでもどこでも誰でもできるようになった。小学生から90歳の老人まで、誰もがやろうと思えば簡単に文章を公開できる。推敲して文章を書くことも可能だが、思ったことを瞬時に書き、それをブログやSNSに発表できる。この変化とは、悪影響であるので以前に戻すということが不可能な類いのものである。

とはいえ、個人やある特定の共同体なかでの生活や仕事に対する考え方、律し方はいろいろ可能だろう。ネットも携帯も持たないという抵抗だってできる。しかし、世界全体がネット以前の状態に戻るということはまずありえない。

インターネット普及以前は、文章を社会に発表するためには、本や雑誌、新聞やTV、ラジオなどのメディアを通さなければならなかった。もし、自費出版だとしても、それなりのコストと手間がかかった。発表する上でかかる負荷が、作品や発言の内容を支える下部構造として機能していた。
作品を(自己も含めた)検閲や校正することは「洗練」と呼んでいいはずだが、「洗練」とは経済性や市場性を抜きにしては考えられない。この「洗練」があるからこそ、オルタナティブが可能であるといえた。オルタナティブが不可能になったといいたいわけではない。すべてがオルタナティブであるともいえるがゆえに、オルタナティブな活動は、さらに活発化している。
そして、今も業界が保証する「洗練」が存在しないわけではない。それが完全に無くなることもないであろう。しかし、その業界の「洗練」が占有していた価値は、揺さぶられているのは確かである。
誰もがいつでもどこでも簡単に発表、発言できることで「洗練」とその信頼に対する価値が今大きく変わりつつある。
何もかもがなし崩しにダメになっていると書いているわけではない。つまりすべてが変わるといってるわけではない。また、この変化がネガティブにしか働かないとは僕自身は考えていない。
このことは考えるべきものがあるし、実際にこういった類いの研究や言及は非常に多くある。

たとえば、洗い練られるその過程とは、濾過と同じく発表までの時間とコストがかかり、多くの場合、文字数や形式、内容は指定ないし制限がされる。例えば現代美術の作品の展示はそのような制約が非常に強く、コストパフォーマンスがものすごく悪い。そうすると、展示の意味とはどこにあるのか。業界の外の人の誰しもが一度は考えるように、現代美術はそのコストパフォーマンスの悪さを「裸の王様」的にフィルターをかけているにすぎないのではないか。一見自由に見える現代美術は、業界の歴史が作り上げた様々な作法が形骸化し、制度化されていることでひどく不自由な場になってしまった。いや、不自由が悪いわけではない。しかし不自由さを問える場ではなくなってしまったように感じる。すべては外部との関係(ズレ)でしか現れない自由(メタ的な立ち居位置)。

業界が作り上げた検閲、校正の制度が、作品の商品化の前提条件をなしていたわけであり、この「洗練」の行程を省くことは、作品や発言の質や信頼に関わる問題である。現代美術を例に挙げるとわかりにくくなるが、文章はそのような過程をふむことで信頼と責任を作り出していた。
TVで間違った情報を流すことと、個人が間違った情報を流すのでは、意味と責任が全く異なる。

しかし、今や正確な情報とはどこにあるのか、誰もわからなくなってきている。そもそも「洗練」はどのような基準を持ってなされているのか。この検閲機構にある根深い官僚主義に対する不信感は大きい。テレビではリスクを避けるためのつまらないコンテンツが大半を占め、しばしば製作者側からもその不満が聞かれる。正確な情報と、(誰かにとって)安全な情報は別だが、今やテレビは安全な情報しか伝えなくなってきている。

それは倫理的な問題だけではなく、面白さや情報の速度、具体性に対する対応も不十分でそれが露になっている。 大きなメディアは市場を先導し占有してきたはずだが、市場全体をコントロールすることはどのメディアも不可能になってきているだろう。
人は、必ずしも無害なコンテンツを求めているわけではない。少なくとも3.11以後のネット上での様々な議論はネットでしか可能になりえなかった有益な議論がなされていた。

もう1つは、多くの人が著名人や知識人が持っている人格や知識や関心の一面的なものではなく、複数の側面に興味を持つようになった。
彼はどんな本を読み、どんなジョークを言い、どこへ行き、どこで夕飯を食べ、誰としゃべり、何の映画を観て、どんな弱音を吐き。いつ眠るのか。そういうものを求めている人は多く、また、つぶやけるようになればそういうことをつぶやきたくなる。

ネットで膨大にあげられている文章とは、人の思考のだらしなさ、猥褻さ、散漫さ、多様性、暴力性が剥き出しになって現れている。いかに読者(書き手も1人の読者である)に中毒性を与えるのかが明らかになった。人はそういうものを覗き見したいという感覚がひそんでいる。それは文章が読まれる環境の変化も大きい。仕事中の合間に、トイレのなかで、電車や、赤信号の間で文章は読まれるようになった。
何かと何かのわずかな合間で読まれる文章。このこと自体に対して良し悪しの価値判断はしない。人が、文章や作品に求めるものが広がってきている。
一応断りを入れておくと、作品や文章に対する質の問題が全面的に変わるなどということはありえない。過去の作品は今も変わらず重要なものはあるし、現在も質の高い作品は生産されている。しかし、全く変わらないこともありえないだろうがここでの前提である。

しかし、ネットのある意味でのアナーキーな状態はどこまで続いていくのか。ネット上では日々、有害な文章や犯罪的な行為が多くあげられている。それが作り出すデメリットはいかなるものかを考えなくていいはずはない。多くの場所で、管理の必要性が求められているのもまた確かだ。
その一方で、ネットを使った膨大な発言の相当量が(人為的でなく、自動的なものだとしても)監視下にあり、データ化されている。そういう監視やデータ化、あるいは検閲がどのような危険性を持っているかは多くの人が考えている。
また、自由に発言することは許されるにしても、影響力を持つことを許されないような状況がありえるかもしれない。

ところで、最近感じることがある。それはもしある著名人や発言に影響力を持った人間が、問題発言を繰り返ししたとしても、あるいは、何かで警察に捕まったとしても、一度支持を得た者は、その支持者を全面的に失うことはない。ネットはそのような支持者の存在や意見を顕在化させる。これは、問題のある発言者の生存意識を変えているのではないか。たとえば、1つのスキャンダルが、支持者を増やすことも充分にありえる。
それは、メディア=業界の検閲によって抹消できない存在となる。こう考えてみると、業界から引退を余儀なくされた島田紳介がいかにTVの人間であったかと思う。
紳介とは違い、ネットではいくら炎上し、断罪を求められたとしても、本人がそのストレスに耐えうる活力があれば抹消されず、その影響力を持ち続けることも可能なのではないか。
たとえば、もしある業界から締め出されたとしても、あるいは経済制裁が加えられたとしても、募金を募り、有志者を募り、会社を立ち上げること、あるいは逃げ回りながら影響力を作り出し続けることができるかもしれない。そこで結果を出せば、その人をつぶすことはできなくなる。

詐欺スレスレの犯罪的な活動であるとしても、それがある種の人々の考えや欲望を代弁し、支持を得る。それによって彼/彼女の生存は可能なものになるという状況。
これで開き直っている人間の方が、捨て身でパンクなカリスマよりも多く出てきているのではないか。この開き直りは怖い。彼らには利潤か勝算を持ってあえて刺激的な発言をしているからだ。綱渡りに変わりはないにしても。
あくまでそれは泳がされているにすぎないと言うのであればそうかもしれないが。